はじめに
湘南キャンパスは、1963 年に開設されました。創立者・松前重義は、この地を東海大学の永遠の礎となる新しいキャンパスとすべく、施設を整え、総合大学としての機構の充実を図りました。この松前の理想と教育理念を、施設面で一手に支えたのが、松前の盟友で、学園の理事や工学部教授を務めた建築家・山田守です。山田は、松前の構想を具現化すべく、キャンパスのグランドデザインと建物を設計しただけでなく、土地の確保、建築資材や資金調達、役所との交渉など多岐にわたり奔走しました。このキャンパスは、この二人の理念と理想を脈々と継いで、現在も発展し続けています。
現在の感覚で見ると、都心から離れ、駅から少し離れている湘南キャンパス。なぜこの場所に新しいキャンパスを建設したのでしょうか。学生たちはどのような青春をこのキャンパスで謳歌し巣立っていったのでしょうか。そんな疑問の一端をキャンパスの歴史から紐解きます。
第1章 湘南キャンパス前史
キャンパスができる前
1942 年に国防理工学園の設立が認可され、学園は創立しました。翌年、東海大学の前身である航空科学専門学校が現在の静岡県静岡市清水区で開校しました。戦後すぐの1946 年に旧制東海大学の設立が認可され、1950 年に現在の新制東海大学となりました。
戦後の経済的混乱や学制改革による大学の急増などで、学生数は減少して、大学経営は悪化の一途をたどり、学園は危機を迎えます。そこで創立者・松前重義とその同志たちは、1955 年に東京渋谷区富ヶ谷、代々木の地に移転を決断し、起死回生を図りました。それが、現在の渋谷キャンパスです。
その後、日本は経済成長期に入り、大学は再建をはたします。進学率が増加したことにより、学部や学生数は急増。渋谷キャンパスだけでは手狭になりました。その対応として静岡県・清水や神奈川県・相模原(現在の付属相模高等学校の敷地)に新たなキャンパスを開設しましたが、さらに規模の大きいメイン・キャンパスが必要になりました。この時のことを、松前は、「本学の永遠の礎となる新しいキャンパス用地確保の必要に、迫られた。」(松前重義『松前重義 わが昭和史』朝日新聞社、1989年。以下『わが昭和史』)と、懐述しています。そして、現在の湘南キャンパスの地に目を付けるのです。
湘南キャンパス開設計画―なぜこの場所なのか?
建学の地である清水の立地は、“富士を仰ぎ、太平洋を望み、都会の雑踏を避けた”、まさに松前の考える理想の教育環境でした。湘南キャンパスについて、松前は、「私は下見に行って、すっかりこの土地が気に入った。東にはるか江の島を望み、西に富士の高嶺を仰ぎ、北に丹沢の連峰をいただく景勝の地である。」(『わが昭和史』)と述べていることから、自らの理想とする教育・人材育成に相応しい自然環境に近かったのかもしれません。
そして、この素晴らしい環境だけでなく、松前は「小田急線大根駅(現在の東海大学前駅)から徒歩で、わずか10 分。富ヶ谷(渋谷キャンパス)に比べれば不便だが、都心から1時間半ぐらいで通学できる。」(『わが昭和史』)と述べています。湘南キャンパスは、建学の地、清水での苦労から、私学の大学経営の根幹である学生の募集という側面からも、将来を見据えたキャンパスだったのです。
※ 部分は、松前重義の言葉
第2章 建設計画
松前の理想と山田守のグランドデザイン
1962 年5月の理事会で、神奈川県平塚市郊外の土地・約41 万㎡の買収と、土地の利用計画、建設する校舎の計画についての決定がなされました。買収する農地は、数多くの地主が「文教地区になるならば…」と、先祖代々の土地を手放してくれました。現在、北門から出て1号館北側の歩道脇にある望星塚に、この校地提供者210 名の名前を碑に刻み、謝意を表しています。
同年11 月から現在の1号館の建設工事が始まりました。その設計を担当したのは、創立者・松前重義の盟友で、学園の理事・本学教授でもある建築家・山田守です。山田は建物の設計だけでなく、湘南キャンパスのグランドデザインも行いました。
湘南キャンパスにおける彼のグランドデザインの特徴は、単に機能美を求めただけでなく、キャンパスとしての景観美を追求したことです。中心軸として、「中央通り」「富士見通り」の2つの大通りに面して、建物や施設を統一的に配置しました。また、高台の富士見通り沿いに1~3号館など独特のフォルムをもつ建物を配置してシンボル性を高めています。さらに、多くの樹木を植え、自然美を景観美の中に取り入れようとしています。
湘南キャンパスは、松前の教育理念を山田が具現化した作品といってよいでしょう。そのグランドデザインは、当初より大きな変化はありませんが、建物の形状や施設の種類や配置などは、試行錯誤を重ねて建設されていきました。その設計者の山田は、建設真っ只中の1966 年に逝去し、建設計画にとって大きな痛手となりました。しかし、その悲しみを乗り越えて、湘南キャンパスは現状のキャンパスになったのです。
第3章 進む建築
湘南砂漠からオアシスへ
1962 年11 月から始まった1号館の建設工事は、山田守がモットーとした「早く、安く、立派なもの」を合い言葉に、昼夜兼行で進められました。翌年、5月の竣工を待たずに同年度の講義が行われ、竣工後も屋上では鉄塔の施工が続きました。
1964 年からは、改めて「第1次5カ年計画」が実施され、2号館も竣工します。そして1968 年までの5年間の間に、5号館までの建物と各種実験・実習・研究施設や学生寮(湘南望星学塾・女子望星学塾・体育望星学塾)、総合体育館などの運動施設のほか、食堂などのアメニティ施設が郊外型キャンパスの先駆けとして整備されました。
この計画の中で1966 年、3号館や武道館、松前会館の建設中に、中心的な役割を担った山田守が逝去します。学園が悲しみに包まれる中でも、山田の計画に沿って工事は進みました。翌年には、1号館前に山田が寄贈した噴水を設置した噴水池(通称「山田噴水」)が完成し、中央通りや富士見通りの舗装と学内の緑化が進められました。
その整備の中で、2号館、4号館周辺から中央通り両側の歩道、松前会館の庭などに敷かれた石は、東京都電車(愛称「都電」、路面電車)の敷石として利用されたものです。1962 年当時、東京都は時代の波に抗しきれず、いくつかの都電を廃止し、その敷石の処分を検討していました。この情報を得た山田が、キャンパスでの再生・活用を提案します。そして、銀座・築地・新宿線などの敷石を東京都と交渉して、ほとんど無料でもらい受けました。その数は、およそ3万5千枚にのぼります。この山田の案により、キャンパスの環境整備は飛躍的に進んだのです。
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開設時、湘南キャンパスは周辺も含めて道路も未舗装だったため、学生たちから“湘南砂漠” と呼ばれ、晴れの日には土ぼこりが舞い上がり、雨が降れば長靴がなければ歩くこともままならない、劣悪な環境でした。それが、この1960 年代のおよそ8年の歳月で、砂漠の面影は消え去り、若者たちが学問を究め、研究に勤しみ、青春を謳歌するに相応しいオアシスへと変貌を遂げたのです。
1960年代写真館[クリックして開閉]
第4章 紛争と環境の充実
増加する学生たちとキャンパス
1971 年までに10 号館が建設され、以降しばらくの間は大規模な建物は施工されませんでした。この時期、学園では1973 年に阿蘇キャンパスが開設、1974 年には伊勢原キャンパスが開設するなど、湘南以外のキャンパスで建設ラッシュが続いた影響もありました。
1970 年には、全国的に起こった学園紛争の波が湘南キャンパスにも押し寄せます。構内での騒動に発展したため、大学は3度にわたりキャンパスを封鎖し、休講措置を執る事態となりました。それまでの湘南キャンパスには構内と外を隔てる柵がなく、自由に行き来できましたが、この影響でキャンパス敷地の周囲に鉄柵が張り巡らされました。そして大学は、学生の生活や動向を調査・研究するため、学生生活研究所(後の教育研究所、現在の教育開発研究センター)を設立して、教育活動や教育環境の発展や充実を図るようになります。
キャンパスでは、噴水池北側に「星を仰ぐ青年の像」が設置され、当初計画では、ひょうたん型の池にする予定だった陸上競技場の東側にサッカー場が造られました。そして、1972 年には小田急線大根駅(現在の東海大学前駅)に急行が全面停車するようになり、増加する学生たちの通学が便利になりました。
1970 年代の半ばから学生数が急速に増加し、2万人を超えました。特に文学部の学生増への対応策として、1981年、約10 年ぶりの新築、11 号館が竣工します。1986 年には工学系の12 号館、1988 年には教養学部の13 号館が相次いで竣工。11 ~ 13 号館には、各専門の図書館分館が設置され、時代にあった教育・研究のための環境が充実していきました。
さらに、1988 年に「噴水池」が日本庭園風に改修され、和服姿の「松前重義銅像」(製作:藤江暁)を池の前に設置。それに伴い、「星を仰ぐ青年の像」は、総合体育館前に移設されました。ちなみに、現在あるスーツ姿の「松前重義銅像」は1990 年に文化勲章を受章した富永直樹氏が製作し、設置されたもので、和服姿の像は、熊本の松前重義記念館に移設されています。
1970~1980年代写真館[クリックして開閉]
第5章 近代化と地域連携
キャンパスライフにおける質の向上と身近なキャンパス
1991 年に創立者・松前重義が逝去します。学園は大きな柱を失いますが、創立者の遺志を引き継ぎ、前進していきます。湘南キャンパスもまた、時代に合わせて発展しました。
1992 年に、キャンパス初のエスカレータの設置やアトリウム(吹き抜け空間)の導入など、文化系の教室棟として、14 号館が竣工しました。1995 年には、室内プールやトレーニングセンターなどのほか、保健管理センターや学生相談室を備え、体育学と医科学の融合をめざす最新鋭の複合施設、15 号館が竣工しました。1997 年にセメスター制度(2学期制)の導入で不足する理工系の教室棟として16 号館が、そして2000 年に理工系分野の先端的研究・教育の拠点として17 号館が、相次いで竣工します。特にこれらの教育・研究施設は、制度や時代に合わせた最先端のものが取り入れられ、近代化が図られました。
2001 年に、1967 年から使用していた円形食堂が閉館します。2002 年には、円形食堂に代わって新たなアメニティスポットとして、総合体育館南側に「COM SQUARE」(コム・スクエア)が竣工しました。コム・スクエアは、食堂、売店や喫茶コーナーのほかに、音楽ホール・学生ホールが設けられ、建物の外にはオープンテラスも設置されています。そして、閉館した円形食堂は、2006 年に改装して、チャレンジセンター「ものつくり館」として開館しました。また2007 年には9号館に隣接する実験館D 館の南側にコンビニエンスストア併設の「リフレ」を、2008 年には8号館東側にオープンカフェ「PAL SPOT」、中央通りに「カフェテラス」(ドトールコーヒーショップ東海大学店)を竣工。アメニティ施設を充実させ、学生のキャンパスライフの利便性や快適性を向上させるとともに、周辺地域の住民にも活用してもらい身近に感じられるキャンパスへと変化しています。
17 号館やチャレンジセンター「ものつくり館」などは、教育・研究の場というだけにとどまらず、「開かれた大学」として、地域や社会の“知の拠点” となり、地域の多種多様な活動を支えていくことを目指した施設です。17 号館は、産学連携の拠点として社会貢献に活用されています。またチャレンジセンターでは、社会とのつながりの中での実践的な教育や、地域活性・社会貢献など、地域と連携して学生が自由な発想で活動していく拠点となっているのです。
1990~2000年代写真館[クリックして開閉]
第6章 未来へ
進化し続けるキャンパス
2014 年、18 号館が竣工しました。18 号館は、理工系学部の教育・研究施設として建設されたもので、最先端の省エネルギー技術や高い耐震性を持つ免震構造が導入されています。学生同士や教員とのコミュニケーションを促す施設が多く設けられているのが特徴です。例えば、多目的スペース「サイエンス・アトリウム」やグループ学習室、研究室フロアには、誰もが利用できる「ユニバーサル・プレート」や学生用ゼミ室などが設けられています。
1965 年に竣工した研究実験館A・B棟を取り壊し、2017 年、その跡地に19 号館を建設しました。19 号館は主に情報理工学部・工学部が使用しており、社会で求められる力を育成する空間を集約し、学生が互いに刺激し合える空間づくりをコンセプトに設計されています。ラウンジやカフェステーションを設置するほか、グループで新たな課題に挑む学生向けのプロジェクト室、アクティブラーニング型授業に使うラーニングコモンズ、理工系工房なども設けられています。
これらの施設は、学生のコミュニケーション力やコラボレーション力を身につけ、世界で活躍できる人材を育成し、国際レベルでの研究拠点をめざす建物です。
その一環として、2015 年には「カフェテラス」(ドトールコーヒーショップ東海大学店)を「インターナショナル・カフェ」としました。店内は、メニューや掲示板、流れているテレビ番組も備え付けの雑誌も、すべてが「英語」でした。スタッフが接客で話す言葉も英語を使用し、増加する留学生向けサービスの充実とともに、日本人学生たちが、授業では学ぶことができない異文化コミュニケーションを通じて、国際理解を深めることを目的としていました。このような学生食堂やカフェを「完全英語化」にする試みは日本では珍しいことでしたが、残念ながら2020年に学生や教職員の利便性向上のため、コンビニエンスストアに変わりました。
また、2017年に1号館1階B翼に国際教育センター(現 語学教育センター)に付属する施設として「Global AGORA(グローバル・アゴラ)」が誕生しました。Global AGORAでは、英語や他の外国語の学習に加えて留学生の日本語学習も支援し、アゴラ・カフェも併設され、ランチやカフェを楽しみながら交流したり、共に学び合う共生的な空間を提供しています。
2022年、新設した児童教育学部が使用する施設として、研究実験館H跡地の南門前に20号館が建設されました。鉄筋コンクリート造3階建てで、高さを抑えることで周辺の建物と配置や形状を統一。キャンパスの設計者・山田守の特色である水平を基調としたシンプルなデザインを継承した軒の出の深い水平庇と曲面コーナーの意匠が凝らされています。1階には保育実習室「あかちゃん広場」、2階にはグループでの鍵盤学習が行える「ピアノ室」と「ミュージックラボラトリー」を設置。3階には「Working Lounge」など読書や課題作成に適した共有スペースを設けて、「動から静」へと階を上がる毎に学習環境が変化するコンセプトを具現化しています。
東海大学は、世界で活躍できるグローバル人材を育成し、国際レベルでの研究拠点を確立して、国際的な大学(グローバルユニバーシティ)の構築を目指しています。そのために湘南キャンパスは、新たな施設建設とともに教育や研究、社会貢献・地域連携などの充実も図り、進化し続けているのです。
2010年~写真館[クリックして開閉]
番外編1 変わりゆく周辺地域―田畑から学生街へ
湘南キャンパスができたことで、麦などを栽培する畑が広がっていた北金目や、駅があり田畑に囲まれた大根の村落は一変しました。田畑や谷戸も埋め立てられ、宅地化が進められました。キャンパスの建設が進むにつれて、周辺地域の構造が根底から変わっていったのです。時は高度経済成長に沸き立つ建設ラッシュの時代で、キャンパスと地域の発展は一体的でした。キャンパス周辺は学生街として急速に発展し、地方出身学生の入居する下宿やアパートなどが次々と建設され、飲食店も続々とオープンしました。
キャンパスの最寄り駅、小田急「大根」駅が「東海大学前」駅と名称変更したのは、1987年のことでした。
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空中写真から見る周辺地域の変化
昔の大根駅周辺写真[クリックして開閉]
昔の北金目周辺写真[クリックして開閉]
番外編2 湘南キャンパス校舎群の模型
山田守設計建物の石膏模型
湘南キャンパスに建つ、ユニークな形状の校舎群。中でも1号館から4号館といった初期の建築物は、日本を代表する近代建築家・山田守が設計したものとして、建築界でも高く評価されています。
机上での設計と、実際の施工とをつなぐ重要な資料が、ここで紹介する石膏模型です。平面のデザインを立体造形物として表現したこれらの模型が、建設に移る前の検討に使われることもありました。
模型と、現在キャンパスに建つ実際の校舎との間には、形状が異なる部分も散見されます。もちろん、後年の改修などによって当初の形状に変更が加えられる部分もありますが、そうした違いに注目するのも面白いでしょう。
また、構想だけで終わった幻の円形体育館(屋内体育館)にもご注目を。実現こそしませんでしたが、山田が湘南キャンパスに思い描いた夢を、皆さんも追想してみてください。
1号館
広大な湘南キャンパスの北西高台に今もそびえる「1号館」は、1963 年5月8日竣工。構内で最も早く建てられた建物です。真南に玄関を向けたY字型の独創的な外観は、山田建築の代表作といえます。また曲線・曲面を駆使した造りは、山田作品の最大の特徴でもあり、湘南キャンパスのシンボルと呼ぶのにふさわしい建物です。
山田建築の代表作ともいうべきこのY字型の建造物は、中央の正六角形から三方向に射出する三つの翼を持つ構造です。「東京厚生年金病院」(1953 年竣工)において初めてそのデザインが用いられました。日照・通風上有利であるとともに、保守や修繕にも便利という合理的な面も持ち合わせています。また、非常時には各階に設けられたバルコニー兼庇を伝って、各翼の端の階段から避難できるようになっています。
模型が示すとおり、構想段階では5階建てでした。構造計算もその案に沿ってなされましたが、実際には工期短縮や費用削減といった理由から4階建てとなりました。また模型から、竣工時は1階部分がピロティ(独立した柱で上階を支える吹き放しの構造)だったことが分かります。この部分に教室等を設ける改修は、1965 年に行われました。
その他、一目で分かる模型と実際の建物の違いは、模型には鉄塔がないこと。さらに塔屋と玄関上部に突き出た庇の縁(模型では柵)の処理方法も異なっています。
なお、キャンパス開設当初から2号館が竣工する1964 年末ごろまで、1号館は「本館」と呼ばれていました。
2号館
大小の扇が要の部分で結合した形状の「2号館」は、その独特の外観や内部施設から「扇形教室」「階段教室」とも呼ばれています。
1962 年に欧米諸国の大学を視察した松前重義は、日本に比べて遥かに進んだ技術者養成の実態をつぶさに見聞。その影響から、日本におけるマスプロ教育(多人数教育)の充実を強く志向するようになりました。2号館は、その新しい教育を実現する施設として構想され、1964 年12月に竣工します。
構造は屋根を除いて全て鉄筋コンクリート構造。南側にある大ホール(「2S-101 教室」)は固定席で約3,000 名、4階の補助席をあわせれば約3,500 名を収容できます(建学75周年記念事業の一環で固定席は1,868席に改修)。北側の小ホール(「2N-101」教室)の収容人数は約1,000 名。どちらもステージから遠ざかるにつれて机と座席が高い位置に置かれる、いわゆる「階段教室」です。
大ホールには竣工当時最先端の視聴覚設備だった「アイドホール」(大型スクリーン・テレビジョンシステム)が設置され、多人数による視聴覚教育の画期的な施設として各方面から注目されました。
3号館&松前会館
1966 年11 月に竣工した「3号館」は、地上10階(地下1階)の高層建築です。円筒形の構造物の外通路となるらせん状のスロープには当初、自動車の通行が可能な幅が持たせてありました。現在は2011年度末に完了した耐震改修に伴い、柵を設けたため幅が狭くなっています。また、屋上を駐車スペースとする構想があったことが模型から分かります。
模型には円筒の頂部に「京都タワービル」(山田が設計、1964年)に似たタワーが載っていますが、当初は何もありませんでした。現在は各種通信用のアンテナが建っています。さらに現在は北側に建つ14号館(1992年竣工)と1階、4階部分で接続していることもあり、竣工前の構想も含めた状態が確認できる貴重な模型といえます。
3号館とセットで模型が作られた「松前会館」は1966年10月に竣工。学生や教職員、校友が利用できる集会・宿泊施設です。こちらの外観にも多彩な曲面や曲線が使用され、山田のこだわりや独創性が色濃く反映されています。
4号館
地上4階、地下1階建ての「4号館」は、本学の25 周年記念事業と同時期、1967 年12 月に竣工しました。
山田守は生前、「事務、学務、図書館及び教授の研究室にあてる予定」と説明しています。図書館を中心にした構造で、積層式の書庫スペースにより多数の蔵書収納が可能です。
落成時、既に山田は他界していましたが、ギリシャ神殿を彷彿とさせる外観は、「北陸銀行本店計画案」(1953 年)や本学「代々木校舎1号館」(1955 年)、「北陸銀行浅草支店」(1958 年)にも見られ、山田の設計思想を紛れもなく受け継いでいるといえます。2020~2021年度にかけて耐震および改修工事を行い、事務組織を中心とする建物に変わりました。
武道館
山田守の設計による東京・北の丸公園の「日本武道館」(1964年)は、国内外を問わず多くの人々に感銘を与えました。その経験が湘南キャンパスの「武道館」に生かされたと言われています。
本学体育学部の将来の拠点として、また全学生の体躯錬成の道場として、その構想は次第にふくらんでいきました。最終的に総面積は3,400㎡、純日本様式で京都の「三十三間堂」を思わせる、雄大かつ華麗な建物となっています。
山田は病床で「武道館はどこまで出来たか」と毎日のように周囲に質問をし、病身を押して建設現場に赴こうとするほど気にかけていたと伝わっています。
山田が逝去した1966 年6月からほどない同年10 月に竣工し、現在も多くの武道家を育成しています。
屋内体育館
1965年ごろの湘南キャンパス計画図には、「総合体育館」を円形のドームとする構想がみられます(「湘南校舎計画案」参照)。その位置は、現在の総合体育館や5号館・6号館などがある場所で、実現すれば壮大であったことが想像されます。
模型として残る「屋内体育館」の屋根には、換気口と思われる突起が放射状に配置されています。紹介した「2号館」の屋根と似た意匠です。
この他に山田守がデザインした円形ドーム建築は、学生時代の卒業設計である「国際労働協会」(1920年)があるだけです。山田は建築家を志した当初の思いを、この体育館のデザインに込めたのかもしれません。
どちらも建設には至りませんでしたが、“幻の体育館”の模型は山田の独創性を物語る貴重な資料といえるでしょう。