ごあいさつ
東海大学の創立者松前重義は、国際平和に向けた活動に力を入れていました。松前は第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦(ソ連)が対立した「冷戦」時代、ひとたび戦争が起きれば核兵器によって人類絶滅の危機を引き起こす、と危機意識を持っていました。そのような国際情勢で、「小さなパイプでいいからソ連との間に息抜きをつくっておかなくてはいけない」、「グローバルな視点からソ連、東欧諸国との交流を促進することが、東西の冷戦を緩和し、世界の平和に貢献する道である」との考えに立って、松前は自らのイデオロギーと反対の立場の国々とも学術・文化の交流活動を推進し、平和への道につながることを期待したのです。
2022 年 1 月14日、その松前の「2022 年野球殿堂入り」(特別表彰)が公益財団法人野球殿堂博物館より発表されました。「野球殿堂」は日本の野球の発展に大きく貢献した人物の功績を讃え、顕彰しています。殿堂ホールに掲額された松前のレリーフの顕彰文には、「野球の国際化への尽力」と「学生野球の発展に貢献」とその功績が紹介されています。
平和を求める松前は、野球のほかにも国際柔道連盟(IJF)会長を務め、女子柔道のオリンピック参加など柔道競技を通したスポーツによる活動、また日本対外文化協会や松前国際友好財団を設立し、学術・文化交流を通じて相互理解を深める活動も行いました。
松前はスポーツのなかでも、柔道と野球をとりわけ愛しましたが、今回の企画展では野球殿堂入りを記念して、野球を中心に、スポーツを通じ友情を育み、平和を希求した松前の活動の一端を紹介します。
野球殿堂入り特別展開催
第1章 スポーツは平和の薬
松前重義は、幼少の頃より熊本の自然の中で運動に親しみ、スポーツは何でも好きでした。そのなかで特に打ち込んだのが、柔道家であった兄顕義の影響で始めた柔道でした。 松前は学生時代の勉学や卒業研究、また技術者としての研究開発において、ほとんど暇がない時でも柔道で体躯を鍛えたおかげで体力・気力を保つことができました。成長期に体躯を養うことの意義について、「あらゆる複雑な社会生活の中における現象に対して闘いを挑むというときに、(中略)困難を克服する力を生み出す源となるのであります」と述べています。自身のその経験がスポーツへの認識を深めるとともに敬意となり、教育指針の柱としての「若き日に汝の体躯を養え」につながったのです。
学園では、1964 年10月の東京オリンピックに先駆けて、同年 8 月に全国の付属諸学校が、東海大学湘南キャンパスに一堂に会して競い合うスポーツ大会「東海大学学園オリンピック」を始めました(2022年現在は、スポーツ部門と文化部門(8 部門)の計 9 部門)。松前は学園のスポーツ大会に「オリンピック」と名付けて、“スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する”という近代オリンピックの生みの親であるピエール・ド・クーベルタン男爵が提唱するオリンピズムの具現化に尽力したのです。それは松前が「スポーツは人類平和の先駆者である。人類が切望し続けている国際平和実現のための使命をスポーツは担っている。」と述べていることからもうかがえます。
学園史資料
第2章 野球の振興
松前は野球について、「私は柔道も野球も大好きだが、この二つのスポーツを比べてみると、柔道は必然性に左右され、強い者が勝つ。しかし、野球の勝敗を決めるのは偶然性で、この点が柔道と違う。もちろん強いチームが勝つが、弱いチームが勝つときもある。柔道は強い奴が負けることはないが、野球はその逆もあり、スペキュレーション(推測)が入るところに、スポーツとしての面白味がある。」と述べています。
戦中に大政翼賛会の要職にあった松前は、戦後すぐ公職・教職追放となり、学園の経営にたずさわることが出来ない時期がありました。その時には、武蔵野文化都市建設株式会社の社長に就任して、東京都武蔵野市に「戦後の荒廃の中で、青少年を育成するには、スポーツが第一だ」と考えて野球場の建設を行っています。1951年5月には、完成した「グリーンパーク球場」(5万人以上収容)において、プロ野球のこけら落としには、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)、名古屋ドラゴンズ(現・中日ドラゴンズ)、読売ジャイアンツの試合も行われました。球場を核として総合運動場の建設も計画しましたが、その後、追放解除となり、学園に復帰した松前は社長職を辞任し実現されることはありませんでした。
1964 年、全日本大学野球連盟が東京オリンピックを契機にエキシビション・ゲームの開催を決定し、大学野球の振興をめざして全日本大学野球選手権大会の出場枠を拡げることになります。その意向に沿って、松前は東都大学野球連盟に所属していた東海大学のほか、成城大学、日本体育大学、東京教育大学(現 筑波大学)、武蔵大学、明治学院大学、東京経済大学の有志7大学と相集い首都大学野球連盟を設立し、初代会長に就任しました(1991 年 8 月まで)。設立から 5 年目の 1969 年、東海大学硬式野球部が首都大学野球連盟の代表として全日本大学野球選手権で初優勝します。その後も首都大学野球連盟の加盟大学は、全日本大学野球選手権や明治神宮野球大会で輝かしい戦績を残し、学生野球振興の一翼を担っています。
また、松前は1984年に千葉県勝浦市に「武道の伝統文化の価値を尊重し、平和構想をあまねく普及すると共に、国際友好親善を深めることにより世界平和を築くという崇高な考えに基づき、武道によって有意な人材の育成を行うこと」を目的に国際武道大学を創設し、武道・体育・スポーツに関する国際的な指導者を育成しています。 国際武道大学野球部は、東海大学付属校出身者の学生も多く、全日本大学野球選手権大会や明治神宮野球大会に出場し、プロ野球選手も多数輩出する活躍を見せています。
松前は、1974 年には全日本大学野球連盟と日本学生野球協会の副会長に就任し、翌年には日米大学野球選手権大会の日本選手団団長として渡米するなど、学生野球の振興に大きく貢献しました。また、1971 年には日本高等学校野球連盟最高顧問に就任して、高校野球の振興にも尽力します。
高校野球について、松前は「選手だけでなく応援の生徒たちも、純真な心情と純潔な魂を育くんでいくはずだと思うのです。その意味では、少し欲ばっているかも知れませんが、全国高校野球選手権大会にも、もっともっと多くの付属高校に出てもらいたいと思っています。」と語っています。学園の付属高校 14 校(提携校含む)のうち、2021 年度現在までに 12 校が甲子園(夏の全国大会または春の選抜大会)に出場して高校野球を盛り上げています。
1978 年3月には、前年に全日本大学野球選手権と明治神宮大会で準優勝した東海大学硬式野球部と、全米大学野球選手権で優勝したアリゾナ州立大学野球部が「大学野球太平洋シリーズ、アリゾナ州立大学対東海大学」と称し、日米親善試合を行いました。これは松前が渡米した折、アリゾナ州立大学を訪ねて話をまとめてきたものです。国内の各地を転戦した5番勝負は、東海大学の 0 勝 4 敗 1 分で、全米大学王者との実力差を見せつけられる結果となりましたが、日米親善の一助となりました。
1984 年の首都大学野球連盟 20 周年で松前は、「学生野球の振興、つまりは優れた学問とスポーツの両立を通じ、明るいスポーツ界の確立のために努力しなければならず、しかもこれからは、国内における学生スポーツの振興にとどまらず、そのエネルギーを海外にも波及せしめ、世界の平和と友好親善の道をひらくべく努力すべき」と述べて、スポーツを通じた国際平和を改めて指向しています。
学園史資料
首都大学野球連盟とは?
首都大学野球連盟結成までの経過
1964年の東京オリンピックが開催された年、全日本大学野球連盟は、オリンピックに向けたデモンストレーションゲームとして大学野球を挙行することとともに、よりいっそうの大学野球振興をめざし、毎年6月に開催する全日本大学野球選手権大会への出場チームの増加を決めました。戦後発足した新制大学に続々と野球部が誕生し、また大学入学志願者の急増とともに、各地に大学が新設されつつあった当時、この決定は時宜にかなったもので、大学野球関係者を鼓舞するものでした。
かねてより、「学生野球を発展させるためにはどのような方策をとったらよいのか」と協議を重ねていた松前ら首都圏にある大学関係者は、この門戸拡大の決定を好機ととらえます。同年3月6日、東海大学をはじめ成城大学、成蹊大学、武蔵大学、日本体育大学、東京教育大学(現 筑波大学)、上智大学の7大学は、全日本大学野球連盟に「首都大学野球連盟設立趣意書」を提出。同年春からのリーグ戦実施を計画していました。ところが、諸事情により新連盟設立の承認を得られず、上智大学と成蹊大学を除く5大学は、加盟していた東都大学野球連盟の春季リーグ出場を辞退し、親善試合を開催。
5大学は明治学院大学と東京経済大学の2大学を加えて、同年6月8日に改めて東都大学野球連盟を通じて連盟設立を申請。同月13日に受理され、1964年9月9日に明治神宮第二球場で念願のリーグ開幕戦にこぎつけました。
首都大学連盟の運営と躍進
選手の出場にとっても、また学生の応援にも好条件を備えたウィークエンドに試合が可能な球場は、すでに他の連盟などがそれぞれ使用していました。そこで、毎週水曜、木曜、金曜に神宮第二球場を主に、さらに東海大学相模原球場や明治学院大学東村山球場を併用して運営しました。しかし、「学業とスポーツの両立が学生の本分である」という観点からも、ウィークデー開催と使用球場、審判の確保は当初から悩みの種でした。1976年から神宮第二球場の使用をやめ、駒沢球場、川崎球場を使い、土曜、日曜にリーグ戦を運営することができました。以後、川崎球場の老朽化による閉鎖により、平塚球場(現 バッティングパレス相石スタジアムひらつか)や相模原球場( 現 サーティーフォー相模原球場)、大田スタジアムなどで主に試合を行っています。
加盟校は、1966年に城西大学、大東文化大学、明星大学、翌1967年に獨協大学、帝京大学、1975年に玉川大学、2006年に創造学園大学(2012年末退会)、2009年に桜美林大学、2010年に足利工業大学、2019年に日本ウェルネススポーツ大学が加わり、2022年現在は16大学で組織されています。(変遷表参照)
加盟校による全国大会の優勝は、全日本大学野球選手権大会では東海大学が4度、明治神宮野球大会では東海大学が3度、日本体育大学が2度、筑波大学が1度の全国制覇を成し遂げています。(優勝記録参照)
加盟校の変遷
年 | 季 | 加盟校数 | 1部 | 2部 | |
---|---|---|---|---|---|
1964 | 秋 | 7 | 7 | - | 東海大学、成城大学、武蔵大学、日本体育大学、東京教育大学(連盟の年表上は1976年秋季から筑波大学と表記)、明治学院大学、東京経済大学の加盟7校で第1回リーグ戦、1966年秋季リーグ戦を開催。開幕戦は9月9日、神宮第二球場で実施 |
1966 | 春 | 10 | 6 | 4 | 城西大学、大東文化大学、明星大学の3校が新規に加盟したことに伴い、1部(6校)と2部(4校)でリーグ戦を実施。前季最下位(1965年秋季7位)だった東京教育大学を新加盟の3校とともに2部に編成 |
1967 | 春 | 11 | 6 | 5 | 獨協大学が新規加盟 |
同 | 秋 | 12 | 6 | 6 | 帝京大学が新規加盟 |
1975 | 秋 | 13 | 6 | 7 | 玉川大学が新規加盟 |
2006 | 春 | 14 | 6 | 8 | 創造学園大学が新規加盟 |
2009 | 春 | 15 | 6 | 9 | 桜美林大学が新規加盟 |
2010 | 春 | 16 | 6 | 10 | 足利工業大学(2018年4月から足利大学に名称変更)が新規加盟。2部は10校を5校ずつ、A・Bの2グループに分けて総当たり戦を実施。1部との入れ替え戦出場を賭けて、両グループの1位同士で優勝=代表決定戦を行った(A・Bの2グループ制は2013年度春季まで) |
2013 | 春 | 15 | 6 | 9 | 創造学園大学が2012年秋季リーグを最後に脱退 |
2014 | 春 | 15 | 8 | 7 | 1部リーグ8校、2部リーグ7校に再編 |
2016 | 春 | 15 | 6 | 9 | 1部リーグ6校、2部リーグ9校に再編 |
2019 | 春 | 16 | 6 | 10 | 日本ウェルネススポーツ大学が新規加盟。2部は10校を5校ずつ、W・Rの2グループに分けて総当たり戦を実施(A・Bでは順列を含意すると誤解されるため、並列を意識しRedとWhite=紅白とした)。 |
加盟校全国大会優勝の記録
全日本大学野球選手権大会
年 | 大学 | 事項 |
---|---|---|
1969 | 東海大学 | 6月14日~18日、瑞穂球場、中日球場。参加15校。東海大学のエース上田二朗が全4試合で4完投。日本大学との決勝も3-0と完封し、初の全国大会優勝 |
1976 | 東海大学 | 6月5日~11日、明治神宮野球場。参加15校。敗者復活戦で法政大学の好投手・江川卓らを攻略した東海大学。大阪商業大学との決勝を2-1のサヨナラで制し、7年ぶり2度目の栄冠 |
2001 | 東海大学 | 6月12日~19日、明治神宮野球場。参加28校。東海大学はエース久保裕也の力投を捕手・小田嶋正邦ら打撃陣が支えた。決勝で日本大学を2-0と破り、25年ぶり3度目の優勝 |
2014 | 東海大学 | 6月10日~15日、明治神宮野球場、東京ドーム。参加26校。5割超の打率をマークした捕手・大城卓三らが活躍。神奈川大学との決勝を2-0でしのぎ、創部50周年の節目に13年ぶり4度目の優勝 |
明治神宮野球大会(大学の部)
年 | 大学 | 事項 |
---|---|---|
1970 | 東海大学 | 11月6日~10日、明治神宮野球場。参加15校。首都秋季リーグ戦で逆転優勝した勢いそのままに、東海大学が神宮でも躍動。決勝で中京大学を7-2で破り、栄えある第1回大会の王座に輝いた |
1980 | 日本体育大学 | 11月8日~11日、明治神宮野球場。参加10校。日本体育大学の石田富士男が好投。抜群の制球で亜細亜大学との決勝を4-2で制した。日体大は3度目の出場で全国大会初制覇 |
1982 | 東海大学 | 11月6日~9日、明治神宮野球場。参加10校。首都リーグで春、秋ともに全勝優勝を果たしていた東海大学。同年6月の全日本選手権で初戦敗退した悔しさをバネに、12年ぶり2度目の優勝 |
1983 | 東海大学 | 11月5日~8日、明治神宮野球場。参加10校。駒澤大学との決勝は9回にスクイズで勝ち越し、2-1で大会連覇 |
1987 | 筑波大学 | 11月6日~9日、明治神宮野球場。参加10校。初出場の筑波大学が決勝で延長の末、法政大学を4-3のサヨナラで下し初優勝。大学選手権、神宮大会を通じ国立大学として初の大学日本一に輝いた |
2017 | 日本体育大学 | 11月9日~15日、明治神宮野球場。参加11校。日本体育大学が決勝で星槎道都大学を3-0で完封。37年ぶり2度目の優勝。上級生になるほど雑用を多く割り振る古城隆利監督のチーム改革が結実 |
※1968年11月に明治神宮野球場で開催された「明治維新100年記念明治神宮大会」では、8チームが参加した大学の部の決勝(11月4日)で、首都大学野球連盟選抜が東京六大学野球連盟選抜を1-0で下し、優勝している。
第3章 平和へのパイプを求めて
松前の国際平和への活動は、戦後から東西冷戦の国際的な緊張が続く中、文化や学術交流による民間外交にも及びました。1966 年にソビエト連邦(ソ連)・東欧諸国、当時の社会主義国との学術・文化交流を推進する民間機関として、日本対外文化協会を設立。社会主義国と各種集会やシンポジウムの相互開催、代表団の交換のほかに、日本との外交関係の乏しい社会主義国に日本文化を紹介し、社会主義国の文化を日本に紹介するなど相互理解を深めようとしました。
そして「文化の交流、学術の交流を推進することにより友好親善の道を開き、二十年、三十年後における友好親善の道の第一歩を踏み出さん」との熱い情熱のもと、1979年には、未来を担う若手研究者を日本の研究機関に招聘し、各国が抱える課題を解決できる力を磨くとともに、日本と各国の懸け橋として活躍できるよう支援することを目的に、松前国際友好財団を設立しました。
また、松前は同年12月、国際柔道連盟(IJF)総会で第3代会長に選出されました。IJFの組織改革を行い、教育普及活動を推進して段位認定証の発行に踏み切り、女子柔道のオリンピック参加を実現するなどの活動を通じてスポーツ交流による人々の相互理解と融和を図りました。東海大学においても、「単に柔道を普及、充実することだけではなく、それを通じて、世界の平和を実現すること、それに貢献したい」との思いから、1984年に建学40周年記念事業の一つとして、オーストリア・ウィーンにスポーツを通じた相互理解の施設とした「松前武道センター」を建設。1988年から隔年でデンマーク柔道連盟と東海大学が主催する「松前カップ国際柔道大会」も開催されるようになり、国際交流活動の一つとなっています。
学園史資料
西ドイツ・エッセン市で開催された世界柔道選手権大会に合わせてセレモニーが行われた
松前国際友好財団で日本に招いた1期生のロイシェン・バッハ市長と面談
※注意 上の枠をクリックすると動画・音声が流れます。
日本対外文化協会とは?
日本対外文化協会発足までの経緯
日本対外文化協会は、松前によって創設された国際友好団体です。1966年1月10日、日本対外文化協会の設立総会が東京港区のホテルオークラで開催されました。同総会で、会長に松前が、副会長に出版界を代表して徳間康快(徳間書店社長)が、理事長には松本七郎衆議院議員(日本社会党)が就任しました。この時期、日本を取り巻く国際環境は、東西を分けた「冷戦構造」の中で、日米安保条約を軸にしながら外交的選択肢を狭めている時代です。当時の中国、ソ連の対立は隣国である日本を巻き込み「文化・学術」交流でさえほとんど出来ない状況でした。こうした中で、ソ連側から日本側の交流窓口を創ってほしい旨、当時の日本社会党に要請がありました。松前は日本社会党の河上丈太郎委員長からの要請を受け、「この団体は私の創意でつくりたい。しかし、応援はしてほしい。交流の対象をソ連に限定せず、とりあえずソ連・東欧との交流から出発し、将来は対象をより広く世界に求めたい。団体の役員も社会党に限定せず、広く各方面から人材を求めたい」と意見し、河上委員長からも賛同を得ました。
戦前のヨーロッパに留学した経験をもっていた松前は、思想やイデオロギーをこえて物事を考えられるリアリスティックな政治家として知られ、ソ連や東欧との学術・文化交流を推進することの意義が手にとるように理解できました。かねてよりソ連・東欧の社会主義諸国と日本がより深く交流すべきだという持論をもっており、とくに隣国である大国ソ連との安定した国家関係の樹立こそ日本の安全と、将来の経済的発展のためにも必要であり、単なる経済的利益をこえ、国の長期的な安全保障を守るうえでも大きな意義があると考えていたのです。日本対外文化協会が創設された1966年は、日ソ両国の国交が回復し関係が正常化した歴史的な「日ソ共同宣言」が調印されて満10年目にあたります。経済交流も復活し、経済面でも日ソの協力が注目された時期であり、ソ連でもスターリンの死後ブレジネフを中心とするトロイカ体制のもとで学術や文化の高揚期にあり、学術・文化交流を始めるうえで対文協の発足は時宜を得たものでありました。
日本対外文化協会の活動
1965年3月、活動の第一歩として日本側の交流計画案を携えてソ連と東欧のブルガリアを訪問。ソ連ではソ連対外友好文化交流団体連合会(対文連)のイワノフ第一副会長と会談し具体的な交流計画を協議。ソ連対文連との間で文化交流協定を締結しました。1966年にはブルガリアと文化交流協定を締結。その後ドイツ民主共和国(東ドイツ)、ルーマニア、チェコスロバキア、ユーゴスラビアとも協定を締結し、交流の輪を広げていきました。
いずれの交流計画も原則的に対等の条件でなされ、一方通行的なものではなく、平等互恵の相互交流を原則としていることに特徴がありました。そして文化交流と相互理解を必要とする国際間の橋渡しをする民間団体として活動を行っています。
学術・文化交流活動は、出版、エレクトロニクス、美術調査、海洋研究、文壇などの団体を編成し海外に派遣しました。一方、協定を締結した海外からも代表団の来日が相次ぎました。文化活動は、国内で聴くことのできないソ連やブルガリアのアーティストの公演を行い文化理解を促進するとともに、その収益が学術・文化交流活動にあてられました。1966年にはソ連の本場のバレエ団、翌1967年にはブルガリアのソフィア少年少女合唱団を招聘して公演を開催しています。ちなみに、ソフィア少年少女合唱団は2007年までに18回来日公演を行っています。また、「ソ連展」や「文豪ゴーリキー展」などの展覧会を開催しているほか、ソ連の専門家を招いた座談会や講演会も積極的に開催されました。
1972年、会長の松前にモスクワ国立大学から名誉博士号と名誉教授の称号を授与されます。同年、ソ連を訪問中の松前はポポワ・ソ連対文連会長との間で「日ソ学術文化交流協定」に調印。これにより東海大学とモスクワ大学との定期的な留学生交換が開始されました。現在では交換留学生数は1000人をこえ、両大学で学んだ有為な人材は両国各界の第一線で活躍しています。
学術交流では「太平洋水産大規模増殖に関する日ソ合同シンポジウム」など、経済学や都市問題、医学、エレクトロニクス、エネルギーなどの関心の高いテーマで、専門家による学術シンポジウムを開催しました。さらに、1973年に開催された「大シベリア博」や1975年の「19世紀から現代 ロシア・ソビエト国宝絵画展」などの展覧会を開催。1974年には山下泰裕選手をはじめとする東海大学柔道部の学生を中心とするスポーツ訪問団がモスクワを訪問し、スポーツを通じた国際交流を展開しました。
1979年12月に国際柔道連盟(IJF)会長に就任した松前は、日本対外文化協会会長、東海大学総長と多くの顔を持ち、精力的に民間外交、平和活動を展開しました。同年12月には日ソ関係の打開を目指す国民レベルでの対話が必要として、両国の民間友好団体の賛同を得て「日ソ円卓会議」を東京で開催しています。
1986年にソ連でチェルノブイリ原発事故が発生すると人道的な立場から、広島・長崎で被爆者の治療・調査など実績のある熊取敏之氏(元国立放射線医学総合研究所所長)を団長とした「チェルノブイリ原発事故医学協力隊」を派遣し、民間ベースでの協力を行いました。
1990年に東西ドイツが統一、翌1991年に新生ロシアが誕生し、日本対外文化協会も変革が行われます。その過程で1991年8月に、東西対立の困難な国際関係の時代にソ連をはじめとする東欧諸国を訪問し学術・文化交流を結ぶなど民間外交の道筋を拓いてきた松前が逝去しました。
1993年、松前達郎が新会長に選出され、ただちに「ロシア科学アカデミー」と新たな「学術交流協定書」に調印し、新しい活動に入りました。ロシアとの文化・学術交流では、語学研修生の派遣事業、また、東欧諸国を含めた旧ソ連CIS諸国からの研究者の招請などを継続、各種の代表団の派遣、美術展などを展開して今日に至っています。
第4章 友好の野球場を建設
松前がこの様な国際平和の活動に邁進している 1975 年、日米大学野球選手権大会の日本選手団団長としてロサンゼルスに訪米した折に、大リーグ・ドジャースのオーナーであるピーター・オマリー氏から、野球がオリンピック正式競技になるように、ソ連・東欧諸国に働きかける交渉の依頼を受けました。松前はスポーツを通じた国際平和の観点から快く応じ、 1980 年、ソ連側に話を持ちかけ賛同を得たのです。この交渉で松前とオマリー氏の代わりに実務を担いソ連側と具体的な交渉を行ったのが、ハワイ出身の柔道家、元プロ野球選手でもあった本学の大舘勲夫教授と、オマリー氏の日本人秘書を務めたアイク生原(生原昭宏)氏でした。松前とオマリー氏の熱意と尽力が、野球のロサンゼルスおよびソウルのオリンピックでのデモンストレーション競技としての実施、そして 1992 年のバルセロナオリンピックからの正式種目化につながったのです。当時を知る日本学生野球協会常務理事・事務局長だった長船騏郎氏は、「野球がオリンピックの正式種目になった背景には日米両国を中心に多くの人達の努力があったことは否定しません。しかし、私の知る限りでは、最後の表舞台にこそ登場しませんが、野球をオリンピックの正式種目にした最大の功労者は松前重義であったと思います。」と証言しています。
野球の国際化には、社会主義国に野球場を建設して普及させる必要があったため、松前はオマリー氏から賛同を得て、「アメリカからソ連へ野球場を寄付する」ことを提案しましたが、ソ連側の事情で話が進展しません。そこで代わりにアメリカから中国の天津体育学院へ野球場が寄付されることになり、1986 年に中国で開幕式が開催されました。
このような経緯を見てソ連から改めて野球場建設の要請があり、松前は翌 1987 年に東海大学と提携関係にあるモスクワ大学に野球場を寄付することを決意。東海大学校友会の支援を受けて、建設することが決まりました。工事は、野球好きで柔道の心得もあり、松前が訪ソの折に通訳を務めるアレクセイ・アンドレヴィッヒ・ベリヤエフ氏と、東海大学財務部長(当時)の尾郷良幸氏とのコンビで進められました。
1989 年 9 月 1 日に「モスクワ大学松前記念スタジアム」の竣工式が開催され、松前の提唱で日米中ソの4カ国の学生により国際親善野球大会を開催。東海大学、米マイアミ大学、中国天津体育学院、モスクワ大学チームが 2 日間にわたって熱戦を繰り広げました。これらは、国際親善に大きな役割を果たし、野球がオリンピック正式種目に向けて力強い一歩を踏み出すきっかけになりました。なお、この大会は「モスクワ国際学生野球大会」として、2007年まで10回にわたって開催されました。
このように晩年になってもスポーツの振興と国際平和の活動を精力的に行っていた松前でしたが、およそ 2 年後の 1991 年 8 月 25 日に逝去しました。その時には、国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長やオマリー氏をはじめ、東西を問わず海外から多くの弔文が寄せられています。
2021 年、東京2020オリンピックの野球種目において、日本が金メダルを獲得しました。正式競技になって初の快挙です。今回の松前の野球殿堂入りは、野球のオリンピックの正式競技化に貢献したことも、選出理由の一つとなっています。
学園史資料
モスクワ大学松前記念スタジアム竣工式の様子[1989年9月1日] (1分59秒)
ピーター・オマリー(Peter O’Malley)
生没年 | 1937年12月12日 ~ |
出 身 | アメリカ合衆国・ニューヨーク州 |
来 歴 | 実業家。 メジャーリーグ のロサンゼルス・ドジャースの元オーナー。父は同じくドジャース元オーナーのウォルター・オマリー。ペンシルベニア大学ワートンスクール経営学科卒業後、1962年にドジャースに入社。1967年よりスタジアムオペレーション担当副社長として、球団経営に関与する。1969年、上級副社長に昇進。1970年、父の後を受け社長に就任。オーナー在職は29年間。 |
野球のオリンピック正式種目へ
ロサンゼルス・オリンピック組織委員会の委員長だったピーター・ユベロス氏は、野球をオリンピックの正式種目にしようという考えを持っていました。ユベロス氏は1984年にロサンゼルスで開催されるオリンピックを商業的に成功させるには、アメリカの国技である野球が必要との判断でした。
賛同を得るには、アマチュア最強の実力を誇るキューバの賛成が必要で、キューバが動かなければ、ソ連が動かず、ソ連が動かなければ東欧など社会主義国の賛同を得られない状態でした。オリンピックの正式種目は2年前に決定するため、1982年10月にスイス・ローザンヌで開催されるIOCの委員会で決定に持ち込むのがロサンゼルス・オリンピック組織委員会の思惑だったようです。同年8月、ユベロス氏とオマリー氏が、IOC委員の1人であった清川正二氏に野球の正式種目の提案要請のため、日本に派遣したのがオマリー氏の補佐役であった生原昭宏(アイク生原)氏です。さらに9月には、オマリー氏とアイク生原氏は来日し、日本の野球関係者に働きかけたのです。さらに、10月に松前の勧めに従い、アイク生原氏をソ連に派遣し、野球の正式種目への賛同とロサンゼルス・オリンピックへの参加を呼びかけました。
結局、ロサンゼルス・オリンピックで野球はデモンストレーション競技として行われることに決まり、ドジャースタジアムで行われた野球の試合は、多くの観客を集めて大成功をおさめました。この成功により、野球が1992年のバルセロナ大会からオリンピック正式種目となりました。
日本との関係
ドジャースのオーナーとして、1980年代には中日ドラゴンズと業務提携し、フロリダ州ベロビーチでの合同キャンプを実現させたほか、 1995年に野茂英雄投手(32シーズンぶり2人目の日本人メジャーリーガー)と契約しました。1998年にドジャースを売却しましたが 、2009年に名古屋で行われた中日ドラゴンズの山本昌投手の200勝記念パーティーに参加し、2014年には日本の野球殿堂入りを果たした野茂英雄氏のプレゼンターとして西武ドームに来場しています。2015年4月、旭日中綬章を受章。伝達式は7月8日ドジャースタジアムで行われ、「野球は日米の架け橋だ」と語っています。
生原昭宏 (アイク生原)
生没年 | 1937年1月20日 ~ 1992年10月26日 |
出 身 | 福岡県田川郡香春町 |
来 歴 | メジャーリーグ球団職員。日米間の野球交流発展に尽力。愛称「アイク生原」。早稲田大学で野球部選手として活躍。1961年には亜細亜大学硬式野球部監督に就任し、アマチュア野球指導者として活躍するが、自身の指導法に疑問を抱き渡米。ロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーチームで用具係になり、メジャー組織と球団経営を学んだ。1982年1月からはウォルター・オマリー会長の補佐(国際担当)として、日米間の交流に尽す。ウォルターの息子であるピーター・オマリーとは長年行動をともにし、プロ・アマチュアを問わず日米野球交流や野球の国際的普及に尽力した。2002年、特別表彰にて野球殿堂入り。 |
野球のオリンピック正式種目へのプロジェクト参加
1982年、ロサンゼルス・ドジャースのピーター・オマリー会長補佐、国際担当の役職に就任。オマリー氏の使者として野球のオリンピックの正式種目採用とロサンゼルス・オリンピックのソ連ボイコットを防ぐため、日本やソ連へ往来しました。1982年10月、松前の使者であった大舘勲夫氏とともにオマリー氏の使者として訪ソ。大舘氏は生原氏の働きぶりを見て、日本の西大立目永氏(生原の早稲田大学での同級生。アマチュア野球選手、審判員)に「生原くんは仕事に熱中するあまり、夜も全然寝ていない。これでは、いつ倒れるかわからいないから注意してやってくれ。君のいうことなら聞くだろうから」と言ったそうです。
ソ連体育・スポーツ委員会のパブロフ議長から「プレジネフ書記長もロサンゼルス・オリンピックはボイコットしないと言っている。キューバも野球は強いし、賛成させるから、話を進めなさい。」と言われ、2人は喜んでソ連を後にしました。ソ連から正式種目採用を妨害しないという保証が得られたようです。
しかし、1982年12月、プレジネフ書記長が死去し、アンドロポフが書記長になり、パブロフは失脚。さらに1984年2月にアンドロポフ書記長の死去により、チェルネンコが権力を握り、直前でロサンゼルス・オリンピックの東側諸国のボイコットになりました。
大舘勲夫と尾郷良幸の証言
大舘勲夫について
生没年 | 1917年4月9日 ~ 2000年6月8日 |
出 身 | アメリカ合衆国ハワイ準州 |
来 歴 | 1935年に旧制平安中学(現・龍谷大学付属平安高等学校)で、全国中等学校優勝野球大会に出場。その後京都の武道専門学校に籍を置いて柔道を修行し、1939年の明治神宮野球大会では非専門部門ながら優勝を果たした。野球では全京都でプレー。1949年に31歳で大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団。1950年に毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に移籍し、1954年から主将を務めた。1955年に引退。引退後は日本野球連盟参与を務める。また、東海大学で非常勤教授・硬式野球部顧問に就任 。ハワイ出身で英語が堪能であったため、学園の大学・付属校の野球部が海外チームと親善試合を開催する折に、部員を引率し友好のパイプ役を果たした。 |
大舘勲夫のソ連交渉役についての証言
松前総長から「忙しいので、代わりに訪ソしてまとめてくれ」と頼まれた。用件は、①ソ連がロサンゼルス五輪をボイコットしないように説得する、②野球をオリンピックの正式競技種目にするよう、ソ連も尽力してほしい、というものだった、ただ、「すぐ発て」と言われても、私はハワイ生まれのため、米国のパスポートしかなく、簡単に査証が下りそうもない。同行する生原君も、そうだ。そうしたら、総長がソ連大使館に特別に頼み込んで、3時間ぐらいでビザを取ってくれた。パブロフ議長に会って要望したら、「ソ連は野球をオリンピックの正式競技種目にすることは、賛成だ」と言った。ロサンゼルスに続いて、ソウルでもオリンピック種目とするために、必要な野球のデモンストレーションをやるので、1992年のオリンピックから、野球が正式な競技種目として、登場するだろう。一方、パブロフ議長は「ロス五輪をソ連はボイコットしない」と明言、「参加の準備を着々と進めているから、松前総長に安心されるよう伝えて欲しい」と述べた。総長も非常に喜んでいたが、ソ連は結果的にボイコットに出た。パブロフ議長との会談1カ月後に、ブレジネフ・ソ連共産党書記長が死去。後継のアンドロポフ政権とレーガン政権の対立が深まり、パブロフ議長も更迭されて、そのためにソ連はボイコットしたのだと思う。もし、ブレジネフ書記長が健在だったら、ソ連はロス五輪に出場していたのではないか。総長も非常に残念がっておられた。
松前重義『松前重義 わが昭和史』(朝日新聞社、1989年)P.278-279
尾郷良幸の証言
松前がソ連に野球場を贈ると聞いて
われわれが野球を普及させようと思ったら、せいぜい野球用具を贈ることぐらいしか考えつきません。それがいきなり野球場です。私は松前総長の人並みはずれた発想に驚きました。この時、松前総長は86歳でした。「いったい親父さんの寿命はいつまであるんだろう。この事業の成果が現れるのは、おそらく20 、いや30年も先のことだろう。そんな先のご自分の命の保証もないのに、どうして私利私欲を越えた情熱を傾けることができるのだろう」と、私は素直に思ったものです。
1989年8月31日のスタジアム開場式の前日の状況
その日の予定にはなかったのですが、松前重義総長が、ヤゴジン教育大臣(国家教育委員会議長)を訪問のあと、突然、「これから野球場を見に行こう」とおっしゃるのです。スタジアムに行きますと、正面入口は大量の土砂が山積みになっています。資材や機械も放り出したままで、足の踏み場もありません。とてものこと正面から内側には入れません。そこで、外野にまわって入ることは入ったのですが、またまた唖然とさせられました。ピッチャーズ・マウンドもブルペンの4カ所のマウンドもゆるやかな傾斜がなく、平らな地面にブロックを1個置いたような状態で、赤茶けた地肌がむきだしのままですし、フィールドには工事用具が散乱していました。肝心のバックネットはまだ張られていないし、スタンドの椅子も取り付けられていません。それにもかかわらず、作業員は血眼になって働いているようには見えないのです。
ものの3分もたたないうちに、松前総長は、「こりゃあ、とても間に合わんな」と、吐き捨てるようにおっしゃり、ぷいっと出ていかれました。私はもう、その場で死んでしまいたい気分でした。全身の震えが治まりませんでした。
寸前までの突貫工事
ともかく、なんとかしなくてはなりません。通訳としてまた球場建設のソ連側の裏方として働いてくれていたベリアエフさんに、モスクワ中からユーゴ人の作業員を探し出して欲しいと頼みました。(中略)おそらく150人ぐらいはいたでしょう。彼らに徹夜で突貫工事をやってもらったんです。そうやって、なんとかオープニングは恰好がつきました。
やはり、ベリアエフさんがいなかったら、と思うと、いまでもぞっとします。球場建設の話が起きて、私がソ連に行って交渉にあたった当初は、どの通訳も野球のヤの字も知らなかったのです。それで、旧知の間柄であった、日本で生まれ育ち、往年の名投手スタルヒンとも親しかったというベリアエフさんを担ぎだしたのです。野球に関しては私なんかより、よほど詳しかったですね。
ソ連に野球を植え付ける
やはり、松前総長の偉大なところは、スタジアムの建設だけでなく、初めからチームづくりも考えられていたことです。1988(平成元)年4月の地鎮祭のとき、東海大学と同じ縦縞のユニフォームやグラブなどの野球用具一式が、モスクワ大学に寄贈されました。(中略)この年の6月から2カ月半、モスクワ大学チームの指導にあたった、横井人輝君の存在を忘れてはなりません。当時、彼は東海大学野球部の助監督でした。単身モスクワに乗り込んで、寄せ集めの、野球をまったく知らないヤリ投げやカヌーの選手を相手に、それこそ一から野球を教えたのです。それ以前に、ハバロフスクで野球を教えたという日本人もいるようですが、横井君こそが、ソ連で本格的に野球指導にあたり、今日のロシアの野球の基本を植えつけた立役者、と言っても過言ではないでしょう。
モスクワ国際学生野球大会一覧
回数 | 開催年 | 月日 | 参加国数 | 参加国:参加チーム |
---|---|---|---|---|
第1回 | 1989 | 9/1~9/3 | 4 | 日本:東海大学・九州東海大学・北海道東海大学選抜チーム ソ連:モスクワ大学 アメリカ:マイアミ大学 中国:天津体育大学院 |
第2回 | 1990 | 6/25~6/27 | 3 | 日本:東海大学・九州東海大学・北海道東海大学選抜チーム ソ連:モスクワ大学 、ソ連選抜チーム 韓国:延世大学 |
第3回 | 1992 | 6/26~7/1 | 4 | 日本:東海大学、創価大学 ロシア:モスクワ大学 アメリカ:ジョーンズ・ホプキンズ大学 韓国:延世大学、慶煕大学 |
第4回 | 1994 | 6/26~7/1 | 3 | 日本:東海大学、創価大学 ロシア:モスクワ大学、赤い鬼(クラブチーム) 韓国:延世大学 |
第5回 | 1996 | 6/23~6/28 | 3 | 日本:東海大学、明治大学 ロシア:サンクトペテルブルク選抜ほか4チーム 韓国:京畿大学 |
第6回 | 1998 | 6/28~7/2 | 4 | 日本:東海大学、国際武道大学、創価大学 ロシア:モスクワ大学、ロシア選抜 ブルガリア:ソフィア・レンジャース(合同チーム) 台湾:淡江大学 |
第7回 | 2000 | 6/24~6/29 | 5 | 日本:東海大学、九州東海大学、創価大学 ロシア:モスクワ大学、ロシア選抜 韓国:漢陽大学 フランス:フランス学生選抜 リトアニア:リトアニア大学 |
第8回 | 2002 | 6/26~6/29 | 5 | 日本:東海大学、国際武道大学、城西大学 ロシア:モスクワ大学、モスクワ国立教育大学 アメリカ:ニューヨーク州立大学 韓国:漢陽大学 ウクライナ:ウクライナ学生選抜 |
第9回 | 2004 | 6/27~7/1 | 5 | 日本:東海大学、国際武道大学、京都大学 ロシア:モスクワ大学、ロシア学生選抜 ウクライナ:ウクライナ学生選抜 中国:天津体育大学院 韓国:慶煕大学 |
第10回 | 2007 | 6/24~6/27 | 5 | 東海大学、国際武道大学、首都大学野球連盟選抜 ロシア:モスクワ大学 ウクライナ:ウクライナ学生選抜 中国:天津体育大学院 韓国:東義大学、慶煕大学 |
オリンピック大会の野球種目で選ばれた学園出身者
年 | 開催国・開催地 | ポジション | 選手名 | 当時の所属 | 結果 | 大学 | 付属校 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | スペイン・バルセロナ | 外野手 | 佐藤 真一 | たくぎん | 銅メダル | 東海大学 | 東海大学第四高等学校 |
1996 | アメリカ・アトランタ | 投手 | 森中 聖雄 | 東海大学4年 | 銅メダル | 東海大学 | 東海大学工業高等学校 |
2000 | オーストラリア・シドニー | 投手 | 土井 善和 | 日本生命 | 4位 | 東海大学 | |
2004 | ギリシャ・アテネ | 投手 | 上原 浩治 | 読売ジャイアンツ | 銅メダル | 東海大学付属仰星高等学校 | |
2008 | 中国・北京 | 投手 | 上原 浩治 | 読売ジャイアンツ | 4位 | 東海大学付属仰星高等学校 | |
2008 | 中国・北京 | 外野手 | 森野 将彦 | 中日ドラゴンズ | 4位 | 東海大学付属相模高等学校 |
プロ野球(NPB)選手になった学園出身者
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氏 名 | 氏名ふりがな | 生年月日 | ドラフト年 | ドラフト順位 | 入団球団 | 出身高校 | 出身大学・専門学校 |
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望月 彦男 | もちづき ひこお | 1943年 1月15日 | 1971年 | 6位 | 西鉄ライオンズ | 東海大学第一高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | |
後藤 和昭 | ごとう かずあき | 1944年 5月28日 | 1968年 | ドラフト外 | 阪神タイガース | 東海大学第一高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 駒澤大学 |
渡辺 孝博 | わたなべ たかひろ | 1946年 7月21日 | 1971年 | 5位 | ヤクルトアトムズ | 東京都立八王子工業高等学校 | 東海大学(湘南) |
上田 次朗 | うえだ じろう | 1947年 7月 6日 | 1969年 | 1位 | 阪神タイガース | 和歌山県立南部高等学校 | 東海大学(湘南) |
内田 順三 | うちだ じゅんぞう | 1947年 9月10日 | 1969年 | 8位 | ヤクルトアトムズ | 東海大学第一高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 駒澤大学 |
遠藤 一彦 | えんどう かずひこ | 1955年 4月19日 | 1977年 | 3位 | 横浜大洋ホエールズ | 学校法人石川高等学校 | 東海大学(湘南) |
石井 昭男 | いしい あきお | 1955年 9月26日 | 1977年 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
広橋 公寿 | ひろはし こうじゅ | 1957年 1月11日 | 1980年 | ドラフト外 | 西武ライオンズ | 東海大学第五高等学校 (現 付属福岡高等学校) | 八幡大学 |
中野 英明 | なかの ひであき | 1957年 7月17日 | 1975年 | 1位 | 近鉄バファローズ | 東海大学第二高等学校 (現 付属熊本星翔高等学校) | |
木下 智裕 | きのした ともひろ | 1957年 7月31日 | 1979年 | 1位 | 阪急ブレーブス | 滝川高等学校 | 東海大学(湘南) |
岡部 憲章 | おかべ のりあき | 1958年 4月11日 | 1976年 | ドラフト外 | 日本ハムファイターズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
原 辰徳 | はら たつのり | 1958年 7月22日 | 1980年 | 1位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
市川 和正 | いちかわ かずまさ | 1958年10月 9日 | 1980年 | 4位 | 横浜大洋ホエールズ | 愛知県立国府高等学校 | 東海大学(湘南) |
津末 英明 | つすえ ひであき | 1958年10月16日 | 1980年 | ドラフト外 | 日本ハムファイターズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
伊藤 寿文 | いとう としふみ | 1959年 5月14日 | 1983年 | 4位 | 広島東洋カープ | 愛知県立国府高等学校 | 東海大学(湘南) |
井辺 康二 | いべ やすじ | 1959年 7月21日 | 1981年 | 1位 | ロッテオリオンズ | 東海大学第一高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 東海大学(湘南) |
青山 道雄 | あおやま みちお | 1959年12月17日 | 1983年 | 3位 | 西武ライオンズ | 東海大学工業高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 東海大学(湘南) |
高野 光 | たかの ひかる | 1961年 5月20日 | 1983年 | 1位 | ヤクルトスワローズ | 東海大学付属浦安高等学校 | 東海大学(湘南) |
内田 強 | うちだ つよし | 1961年 5月27日 | 1985年 | 3位 | 阪急ブレーブス | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
宮下 正彦 | みやした ただひこ | 1962年 5月19日 | 1986年 | ドラフト外 | 横浜大洋ホエールズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
長谷川 国利 | はせがわ くにとし | 1962年 5月26日 | 1984年 | 4位 | 横浜大洋ホエールズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
西本 和人 | にしもと かずひと | 1962年 6月19日 | 1980年 | ドラフト外 | 西武ライオンズ | 東海大学第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | |
酒井 勉 | さかい つとむ | 1963年 6月27日 | 1988年 | 1位 | オリックス・ブレーブス | 東海大学付属浦安高等学校 | 東海大学(湘南) |
渡辺 伸治 | わたなべ しんじ | 1963年 9月 8日 | 1985年 | 3位 | 阪急ブレーブス | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
城土 大治朗(大二郎) | じょうど だいじろう | 1965年 3月 6日 | 1987年 | 3位 | 西武ライオンズ | 東海大学第五高等学校 (現 付属福岡高等学校) | |
松永 幸男 | まつなが ゆきお | 1965年 7月15日 | 1989年 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 熊本県立芦北高等学校 | 九州東海大学 |
佐藤 真一 | さとう しんいち | 1965年 8月 7日 | 1992年 | 4位 | 福岡ダイエーホークス | 東海大学第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | 東海大学(湘南) |
藤枝 慎治 | ふじえだ しんじ | 1965年 8月19日 | 1983年 | ドラフト外 | ヤクルトスワローズ | 東海大学第二高等学校 (現 付属熊本星翔高等学校) | |
荻原 満 | おぎわら みつる | 1965年12月19日 | 1987年 | ドラフト外 | 読売ジャイアンツ | 仙台商業高等学校 | 東海大学(湘南) |
若林 弘泰 | わかばやし ひろやす | 1966年 4月22日 | 1991年 | 4位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
藤本 健治 | ふじもと けんじ | 1966年 6月12日 | 1984年 | 6位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | |
四條 稔 | よじょう みのる | 1966年 9月27日 | 1988年 | 4位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
関根 毅 | せきね たけし | 1966年10月 6日 | 1988年 | 5位 | ヤクルトスワローズ | 修徳高等学校 | 東海大学(湘南) |
安藤 学 | あんどう まなぶ | 1967年 5月29日 | 1992年 | 6位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東邦高等学校 | 東海大学(湘南) |
佐久間 浩一 | さくま ひろかず | 1967年10月11日 | 1989年 | 4位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属浦安高等学校 | 東海大学(湘南) |
小坂 勝仁 | おさか かつひと | 1968年 6月14日 | 1990年 | 2位 | ヤクルトスワローズ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | 東北福祉大学 |
小島 圭市 | こじま けいいち | 1968年 7月 1日 | 1986年 | ドラフト外 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属高輪台高等学校 | |
山根 善伸 | やまね よしのぶ | 1968年12月18日 | 1991年 | 7位 | 横浜大洋ホエールズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
久慈 照嘉 | くじ てるよし | 1969年 4月19日 | 1991年 | 2位 | 阪神タイガース | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
吉永 幸一郎 | よしなが こういちろう | 1969年 5月 1日 | 1987年 | 5位 | 南海ホークス | 東海大学工業高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | |
大村 巌 | おおむら いわお | 1969年 5月31日 | 1987年 | 6位 | ロッテオリオンズ | 東海大学第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | |
加藤 高康 | かとう たかやす | 1969年 6月 7日 | 1993年 | 1位 | 千葉ロッテマリーンズ | 仙台商業高等学校 | 東海大学(湘南) |
五十嵐 英樹 | いがらし ひでき | 1969年 8月23日 | 1992年 | 3位 | 横浜ベイスターズ | 東海大学工業高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | |
鈴木 平 | すずき たいら | 1970年 3月10日 | 1987年 | 3位 | ヤクルトスワローズ | 東海大学第一高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | |
山口 幸勇 | やまぐち ゆきお | 1970年 4月24日 | 1988年 | ドラフト外 | 横浜大洋ホエールズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
吉元 伸二 | よしもと しんじ | 1970年 4月24日 | 1994年 | 4位 | ヤクルトスワローズ | 東海大学第五高等学校 (現 付属福岡高等学校) | |
大塚 晶文 | おおつか あきのり | 1972年 1月13日 | 1996年 | 2位 | 近鉄バファローズ | 横芝敬愛高等学校 | 東海大学(湘南) |
榎 康弘 | えのき やすひろ | 1972年 5月22日 | 1990年 | 6位 | ロッテオリオンズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
萩原 淳 | はぎわら じゅん | 1973年 8月20日 | 1991年 | 2位 | オリックス・ブルーウェーブ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
早川 健一郎 | はやかわ けんいちろう | 1973年11月 7日 | 1995年 | 4位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
森中 聖雄 | もりなか まさお | 1974年 4月 9日 | 1996年 | 2位(逆指名) | 横浜ベイスターズ | 東海大学工業高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 東海大学(湘南) |
佐竹 学 | さたけ まなぶ | 1974年10月27日 | 1996年 | 4位 | オリックス・ブルーウェーブ | 東海大学第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | 東海大学(湘南) |
吉田 道 | よしだ とおる | 1975年 1月15日 | 1992年 | 2位 | 近鉄バファローズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
上原 浩治 | うえはら こうじ | 1975年 4月 3日 | 1998年 | 1位(逆指名) | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | 大阪体育大学 |
建山 義紀 | たてやま よしのり | 1975年12月26日 | 1998年 | 2位(逆指名) | 日本ハムファイターズ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | 甲賀総合科学専門学校 |
中野渡 進 | なかのわたり すすむ | 1976年 9月17日 | 1999年 | 7位 | 横浜ベイスターズ | 東海大学菅生高等学校 | |
相川 良太 | あいかわ りょうた | 1977年 1月18日 | 1998年 | 3位 | オリックス・ブルーウェーブ | 暁星国際高等学校 | 東海大学(湘南) |
原 俊介 | はら しゅんすけ | 1977年 8月30日 | 1995年 | 1位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | |
佐藤 和宏 | さとう かずひろ | 1977年 9月21日 | 2001年 | 6巡目 | 大阪近鉄バファローズ | 熊本県立阿蘇高等学校 | 九州東海大学 |
箕田 卓哉 | みのだ たくや | 1977年11月 2日 | 1995年 | 6位 | 日本ハムファイターズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
梶原 康司 | かじわら こうじ | 1978年 4月20日 | 2000年 | 8位 | 阪神タイガース | 延岡学園高等学校 | 九州東海大学 |
森野 将彦 | もりの まさひこ | 1978年 7月28日 | 1996年 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
稲嶺 茂夫 | いなみね しげお | 1978年 8月13日 | 2000年 | 7位 | 横浜ベイスターズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
岡上 和典 | おかがみ かずのり | 1979年 1月 4日 | 2000年 | 7位 | 広島東洋カープ | 九州産業大学付属九州高等学校 | 東海大学(湘南) |
神島 崇 | かみしま たかし | 1979年 1月 9日 | 1999年 | 6位 | 日本ハムファイターズ | 東海大学第五高等学校 (現 付属福岡高等学校) | インディアンヒルズ短期大学 |
平野 恵一 | ひらの けいいち | 1979年 4月 7日 | 2001年 | 自由獲得枠 | オリックス・ブルーウェーブ | 桐蔭学園高等学校 | 東海大学(湘南) |
小田嶋 正邦 | おだじま まさくに | 1979年 4月12日 | 2001年 | 3巡目 | 横浜ベイスターズ | 東海大学山形高等学校 | 東海大学(湘南) |
吉村 将生 | よしむら まさき | 1979年 4月29日 | 1997年 | 7位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | |
笹川 隆 | ささがわ たかし | 1979年11月 8日 | 1997年 | 6位 | 福岡ダイエーホークス | 東海大学菅生高等学校 | |
鞘師 智也 | さやし ともや | 1980年 5月 6日 | 2002年 | 4巡目 | 広島東洋カープ | 報徳学園高等学校 | 東海大学(湘南) |
久保 裕也 | くぼ ゆうや | 1980年 5月23日 | 2002年 | 自由獲得枠 | 読売ジャイアンツ | 沖学園高等学校 | 東海大学(湘南) |
小林 正人 | こばやし まさと | 1980年 8月21日 | 2002年 | 6巡目 | 中日ドラゴンズ | 桐生第一高等学校 | 東海大学(湘南) |
川﨑 雄介 | かわさき ゆうすけ | 1982年 2月17日 | 2005年 | 大学生・社会人4巡目 | 千葉ロッテマリーンズ | 宮崎県立宮崎南高等学校 | 九州東海大学 |
中村 一生 | なかむら いっせい | 1982年 4月 2日 | 2004年 | 7巡目 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属浦安高等学校 | 国際武道大学 |
山本 淳 | やまもと じゅん | 1982年 4月16日 | 2006年 | 大学生・社会人3巡目 | 西武ライオンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 国際武道大学 |
松岡 健一 | まつおか けんいち | 1982年 6月 7日 | 2004年 | 自由獲得枠 | ヤクルトスワローズ | 東海大学第二高等学校 (現 付属熊本星翔高等学校) | 九州東海大学 |
大松 尚逸 | おおまつ しょういつ | 1982年 6月16日 | 2004年 | 5巡目 | 千葉ロッテマリーンズ | 金沢高等学校 | 東海大学(湘南) |
山田 憲 | やまだ けん | 1983年 6月23日 | 2001年 | 7巡目 | 北海道日本ハムファイターズ | 東海大学付属浦安高等学校 | |
原 拓也 | はら たくや | 1984年 5月18日 | 2006年 | 大学生・社会人4巡目 | 西武ライオンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 関東学院大学 |
長田 昌浩 | ながた まさひろ | 1984年 6月10日 | 2002年 | 4巡目 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属望洋高等学校 (現 付属市原望洋高等学校) | |
松井 宏次 | まつい こうじ | 1984年12月 2日 | 2009年 | 育成選手1位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 静岡県立磐田農業高等学校 | 東海大学(湘南) |
川端 崇義 | かわばた たかよし | 1985年 2月 4日 | 2011年 | 8位 | オリックス・バファローズ | 東海大学付属相模高等学校 | 国際武道大学 |
加治前 竜一 | かじまえ りゅういち | 1985年 4月 6日 | 2007年 | 大学生・社会人4巡目 | 読売ジャイアンツ | 智辯学園高等学校 | 東海大学(湘南) |
市川 友也 | いちかわ ともや | 1985年 5月 9日 | 2009年 | 4位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
金森 敬之 | かなもり たかゆき | 1985年 7月24日 | 2003年 | 6巡目 | 北海道日本ハムファイターズ | 東海大学菅生高等学校 | |
松坂 健太 | まつさか けんた | 1985年 8月16日 | 2003年 | 5巡目 | 西武ライオンズ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | |
山中 浩史 | やまなか ひろふみ | 1985年 9月 9日 | 2012年 | 6位 | 福岡ソフトバンクホークス | 熊本市立必由館高等学校 | 九州東海大学 |
荒波 翔 | あらなみ しょう | 1986年 1月25日 | 2010年 | 3位 | 横浜ベイスターズ | 横浜高等学校 | 東海大学(湘南) |
小林 敦 | こばやし あつし | 1986年 2月24日 | 2010年 | 3位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
岩﨑 恭平 | いわさき きょうへい | 1986年 4月 4日 | 2008年 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
佐藤 達也 | さとう たつや | 1986年 7月26日 | 2011年 | 3位 | オリックス・バファローズ | 埼玉県立大宮武蔵野高等学校 | 北海道東海大学 |
仲澤 広基 | なかざわ ひろき | 1987年 1月22日 | 2008年 | 6位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | 国際武道大学 |
村中 恭兵 | むらなか きょうへい | 1987年10月25日 | 2005年 | 高校生ドラフト1巡目 | 東京ヤクルトスワローズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
田中 大二郎 | たなか だいじろう | 1988年 4月29日 | 2006年 | 高校生3巡目 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | |
伊志嶺 翔大 | いしみね しょうた | 1988年 5月12日 | 2010年 | 1位 | 千葉ロッテマリーンズ | 沖縄尚学高等学校 | 東海大学(湘南) |
藤井 亮太 | ふじい りょうた | 1988年 9月30日 | 2013年 | 6位 | 東京ヤクルトスワローズ | 兵庫県立高砂南高等学校 | 東海大学海洋学部 |
石田 隆司 | いしだ たかし | 1989年 6月13日 | 2007年 | 高校生3巡目 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | |
田中 広輔 | たなか こうすけ | 1989年 7月 3日 | 2013年 | 3位 | 広島東洋カープ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
菅野 智之 | すがの ともゆき | 1989年10月11日 | 2012年 | 1位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
田代 将太郎 | たしろ しょうたろう | 1989年12月13日 | 2011年 | 5位 | 埼玉西武ライオンズ | 東海大学付属第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | 八戸大学 |
伏見 寅威 | ふしみ とらい | 1990年 5月12日 | 2012年 | 3位 | オリックス・バファローズ | 東海大学付属第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | 東海大学(湘南) |
大田 泰示 | おおた たいし | 1990年 6月 9日 | 2008年 | 1位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | |
西野 真弘 | にしの まさひろ | 1990年 8月 2日 | 2014年 | 7位 | オリックス・バファローズ | 東海大学付属浦安高等学校 | 国際武道大学 |
坂口 真規 | さかぐち まさき | 1990年 9月29日 | 2012年 | 5位 | 読売ジャイアンツ | 智辯学園和歌山高等学校 | 東海大学(湘南) |
赤間 謙 | あかま けん | 1990年11月14日 | 2015年 | 9位 | オリックス・バファローズ | 東海大学山形高等学校 | 東海大学(湘南) |
松本 直晃 | まつもと なおあき | 1990年11月14日 | 2015年 | 10位 | 埼玉西武ライオンズ | 東海大学付属翔洋高等学校 (現 付属静岡翔洋高等学校) | 環太平洋大学 |
甲斐 拓哉 | かい たくや | 1990年12月18日 | 2008年 | 1位 | オリックス・バファローズ | 東海大学付属第三高等学校 (現 付属諏訪高等学校) | |
角 晃多 | すみ こうた | 1991年 1月13日 | 2008年 | 育成選手3位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
友永 翔太 | ともなが しょうた | 1991年 4月 1日 | 2014年 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 国際武道大学 |
眞下[真下] 貴之 | まっか たかゆき | 1991年 4月19日 | 2009年 | 4位 | 横浜ベイスターズ | 東海大学付属望洋高等学校 (現 付属市原望洋高等学校) | |
鈴木 昂平 | すずき こうへい | 1991年 6月20日 | 2015年 | 7位 | オリックス・バファローズ | 東海大学菅生高等学校 | 東海大学(湘南) |
橋爪 大佑 | はしづめ だいすけ | 1992年 3月30日 | 2013年 | 育成選手2位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | 大阪商業大学 |
一二三 慎太 | ひふみ しんた | 1992年 9月29日 | 2010年 | 2位 | 阪神タイガース | 東海大学付属相模高等学校 | |
寺岡 寛治 | てらおか かんじ | 1992年12月 3日 | 2017年 | 7位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 東海大付属第五高等学校 (現 付属福岡高等学校) | 九州共立大学 |
大城 卓三 | おおしろ たくみ | 1993年 2月11日 | 2017年 | 3位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
菅野 剛士 | すがの つよし | 1993年 5月 6日 | 2017年 | 4位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属相模高等学校 | 明治大学 |
田中 俊太 | たなか しゅんた | 1993年 8月18日 | 2017年 | 5位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | 東海大学(湘南) |
高橋 周平 | たかはし しゅうへい | 1994年 1月18日 | 2011年 | 1位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
吉田 侑樹 | よしだ ゆうき | 1994年 2月16日 | 2015年 | 7位 | 北海道日本ハムファイターズ | 東海大学付属仰星高等学校 (現 付属大阪仰星高等学校) | 東海大学(湘南) |
中川 皓太 | なかがわ こうた | 1994年 2月24日 | 2015年 | 7位 | 読売ジャイアンツ | 山陽高等学校 | 東海大学(湘南) |
水野 滉也 | みずの こうや | 1994年 6月 1日 | 2016年 | 2位 | 横浜DeNAベイスターズ | 札幌日本大学高等学校 | 東海大学北海道キャンパス |
南 要輔 | みなみ ようすけ | 1994年 8月 7日 | 2016年 | 育成2位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 東海大学菅生高等学校 | 明星大学 |
丸山 泰資 | まるやま たいすけ | 1995年 2月 5日 | 2016年 | 6位 | 中日ドラゴンズ | 東邦高等学校 | 東海大学(湘南) |
渡邉 諒 | わたなべ りょう | 1995年 4月30日 | 2013年 | 1位 | 北海道日本ハムファイターズ | 東海大学甲府高等学校 (現 付属甲府高等学校) | |
宮川 哲 | みやがわ てつ | 1995年10月10日 | 2019年 | 1位 | 埼玉西武ライオンズ | 東海大学山形高等学校 | 上武大学 |
吉川 雄大 | よしかわ かずき | 1996年12月12日 | 2021年 | 7位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 広陵高等学校 | 東海大学(湘南) |
今川 優馬 | いまがわ ゆうま | 1997年 1月25日 | 2020年 | 6位 | 北海道日本ハムファイターズ | 東海大学付属第四高等学校 (現 付属札幌高等学校) | 東海大学北海道キャンパス |
高橋 優貴 | たかはし ゆうき | 1997年 2月 1日 | 2018年 | 1位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学菅生高等学校 | 八戸学院大学 |
豊田 寛 | とよだ ひろし | 1997年4月28日 | 2021年 | 6位 | 阪神タイガース | 東海大学付属相模高等学校 | 国際武道大学 |
小川 一平 | おがわ いっぺい | 1997年 6月 3日 | 2019年 | 6位 | 阪神タイガース | 神奈川県立横須賀工業高等学校 | 東海大学九州キャンパス |
吉田 凌 | よしだ りょう | 1997年 6月20日 | 2015年 | 5位 | オリックス・バファローズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
海野 隆司 | うみの たかし | 1997年 7月15日 | 2019年 | 2位 | 福岡ソフトバンクホークス | 関西高等学校 | 東海大学(湘南) |
勝俣 翔貴 | かつまた しょうき | 1997年 7月20日 | 2019年 | 5位 | オリックス・バファローズ | 東海大学菅生高等学校 | 国際武道大学 |
小笠原 慎之介 | おがさわら しんのすけ | 1997年10月 8日 | 2015年 | 1位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
高部 瑛斗 | たかべ あきと | 1997年12月11日 | 2019年 | 3位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属甲府高等学校 | 国士舘大学 |
島 孝明 | しま たかあき | 1998年 6月26日 | 2016年 | 3位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属望洋高等学校 (現 付属市原望洋高等学校) | |
山﨑 伊織 | やまさき いおり | 1998年10月10日 | 2020年 | 2位 | 読売ジャイアンツ | 明石市立明石商業高等学校 | 東海大学(湘南) |
亀田 啓太 | かめだ けいた | 1999年4月9日 | 2021年 | 育成3位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属甲府高等学校 | 東海大学(湘南) |
金久保 優斗 | かなくぼ ゆうと | 1999年11月 4日 | 2017年 | 5位 | 東京ヤクルトスワローズ | 東海大学付属市原望洋高等学校 | |
小林 珠維 | こばやし じゅい | 2001年 5月 7日 | 2019年 | 4位 | 福岡ソフトバンクホークス | 東海大学付属札幌高等学校 | |
遠藤 成 | えんどう じょう | 2001年 9月19日 | 2019年 | 4位 | 阪神タイガース | 東海大学付属相模高等学校 | |
西川 僚祐 | にしかわ りょうすけ | 2002年 4月19日 | 2020年 | 5位 | 千葉ロッテマリーンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
山村 崇嘉 | やまむら たかよし | 2002年 9月28日 | 2020年 | 3位 | 埼玉西武ライオンズ | 東海大学付属相模高等学校 | |
石田 隼都 | いしだ はやと | 2003年4月5日 | 2021年 | 4位 | 読売ジャイアンツ | 東海大学付属相模高等学校 | |
大河原 翔 | おおかわら しょう | 2003年8月17日 | 2021年 | 育成3位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 東海大学山形高等学校 | |
森下 翔太 | もりした しょうた | 2000年 8月14日 | 2022年 | 1位 | 阪神タイガース | 東海大学付属相模高等学校 | 中央大学 |
門別 啓人 | もんべつ けいと | 2004年 7月10日 | 2022年 | 2位 | 阪神タイガース | 東海大学付属札幌高等学校 | |
濱 将乃介 | はま しょうのすけ | 2000年 5月 3日 | 2022年 | 5位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学付属甲府高等学校 | |
田中 幹也 | たなか みきや | 2000年11月28日 | 2022年 | 6位 | 中日ドラゴンズ | 東海大学菅生高等学校 | 亜細亜大学 |
松本 健吾 | まつもと けんご | 1999年 4月14日 | 2023年 | 2位 | 東京ヤクルトスワローズ | 東海大学菅生高等学校 | 亜細亜大学 |
奥村 光一 | おくむら こういち | 1999年12月24日 | 2023年 | 育成6位 | 埼玉西武ライオンズ | 東海大学付属静岡翔洋高等学校 | 東海大学(湘南) |
日當 直喜 | ひなた なおき | 2005年 7月 6日 | 2023年 | 3位 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 東海大学菅生高等学校 | |
百﨑 蒼生 | ももさき あおい | 2005年 9月11日 | 2023年 | 4位 | 阪神タイガース | 東海大学付属熊本星翔高等学校 |
参考文献
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 通史篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学七十五年史編集委員会『東海大学七十五年史 通史篇』(学校法人東海大学、2018年)
- 松前文庫編集委員会『松前文庫』第1~100号(東海教育研究所、1975~2001年)
- 『東海大学新聞』(東海大学新聞部・東海大学新聞会・東海大学新聞編集委員会、1955~2021年)
- 松前重義『私の民間外交二十年―日本対外文化協会二十年の記録―』(東海大学出版会、1986年)
- 松前重義『青春に生きよう―松前重義望星学塾講演集―』(東海大学出版会、1991年)
- 松前重義『松前重義 わが昭和史』(朝日新聞社、1989年)
- 松前重義『松前重義 わが人生』(東海大学出版会、1990年)
- 「松前重義 その国際活動」編纂委員会『松前重義 その国際活動 Ⅱ』(東海大学出版会、1993年)
- 松前重義「高校野球偶感」(『望星』vol.7 No.10、東海教育研究所、1976 年)
- 生原喜美子『ドジャースと結婚した男―アイク生原の生涯―』(ベースボールマガジン社、1997年)
モスクワ大学スタジアムのグラウンドが綺麗ですね。欲を言えば、日本でも川崎や等々力球場など首都大学リーグ戦のスタジアム整備にも力を入れて欲しかったです。川崎球場などの整備にしても、フランチャイズとして先約権がありながらカネに?なロッテ球団や川崎市に意見できるのは松前東海大学しか無かったですからね。