※ 部分は、松前重義の言葉や記述
ごあいさつ
逓信省(後に電気通信省と郵政省に分かれる。共に民営化され現在のNTTおよび日本郵政グループ)の技官であった松前重義は、無装荷ケーブル通信方式の実用化に向けた実験に取り組んでいる最中の1933年、電話事業研究の目的で1年間のドイツ留学を命じられました。無装荷ケーブルの実用化のめどが付き次第、教育事業に転身するつもりでいた松前は一旦は断りましたが、直属の上司であった梶井剛の特別な配慮でデンマークの視察が認められたため、翻意して留学することになります。
松前がデンマークに興味を持ったのは、内村鑑三の聖書研究会で、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを学んだことからです。その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィ(1783~1872)が提唱する国民高等学校(フォルケホイスコーレ)について知り、そこに教育の理想の姿を見いだしたのです。
留学中の1カ月余りをデンマーク各地の国民高等学校や酪農学校の視察に費やした松前は、「私にとってかつてこれほど、心に充足感を覚えた旅はなかった」(『わが昭和史』)と述懐しています。この体験が後に、国民高等学校の教育を範とした私塾、望星学塾――東海大学の母胎の設立につながるのです。
今回の展示では、松前の留学の足取りを改めて追い、松前自身が現地で撮影した写真・映像資料の一部を紹介して、東海大学の教育の原点に想いをはせます。
序章 出発
松前重義が逓信省から「電話事業研究の為満一カ年間独逸国への在留」を命じられたのは、1933年3月9日のことです。官費による留学は、技術官僚として将来を約束され、エリートコースを歩むことを意味しました。松前は当時、無装荷ケーブル通信方式の実用化に向けた研究に取り組んでおり、そのめどが付き次第、教育事業へ転身しようと考えていました。直属の上司であった梶井剛に、留学の辞退を申し入れますが、「いい機会だから、留学のついでにデンマークにまわってきたらどうだろう」(『わが人生』)との寛容な言葉に、松前は留学の辞退を撤回。欧州留学が決定しました。
松前が欧州に赴いた1933年、ドイツではヒトラーがナチス政権を樹立し、ファシズム国家イタリアのムッソリーニと提携を強化し、米英仏との対立が尖鋭化していました。また、日本は中国大陸への侵攻が国際世論の批判を浴びて国際連盟から脱退し、日独伊の三国同盟に突き進む時代でした。そんな激動の時代、同年4月1日に横浜港から白山丸で出発し(日本郵船歴史博物館「白山丸」航海スケジュール)、海路で欧州に向かったのです。
第1章 イタリア
松前は1933年5月11日頃にイタリアのナポリに上陸(日本郵船歴史博物館「白山丸」航海スケジュール)しました。松前は、この欧州留学中3度にわたりイタリアを訪れています。
1度目はナポリからポンペイの遺跡を訪ねた後に、ローマを通過し、ピサの斜塔を右に眺めながらジェノバを抜けて、国際無線諮問委員会の会議に出席するためスイスのルツェルンへ向かいました。2度目は、同委員会終了後、ドイツのベルリン滞在中の6月13日、再びスイス・ルツェルンを訪れた後、ミラノに足をのばしています。ミラノから6月23日頃にオーストリア・インスブルックを経てドイツに戻っています。
3度目は、1933年暮れにイタリア政府の招待でローマにおける東洋人学生大会に出席後、フィレンツェ、ベネチアを訪問しました。ローマでは1週間滞在し、バチカンなどを訪れているほか、当時首相だったムッソリーニの演説を聴くなど貴重な体験もしています。
第2章 スイス・オーストリア
松前はスイスにも計3回訪問しました。1度目は欧州上陸直後、スイス・ルツェルンで開かれた国際無線諮問委員会(1933年5月)出席のために30日ほど滞在しています。
その後、旅行で2回訪れ、合わせて10日ほど滞在したと語っています。まず、6月13日頃に再度、ルツェルンを訪れてミラノ(イタリア)に向かった旅。次に11月の半ば、ストラスブール(フランス)からスイスに入国し、チューリッヒを訪れてベルリンに戻った旅です。松前は、スイスでジャン・カルヴァンの宗教改革に想いをはせ、チューリッヒでペスタロッチ(教育者)の銅像を見学したり、チューリッヒ工科大学を訪れるなどしています。
第3章 ドイツ
松前は先述の通り「独逸国への在留」を命じられて渡欧していますので、その大部分をドイツで過ごしました。官庁や通信施設、研究所、工場などを視察したほか、無装荷ケーブルについて電気通信関係者と議論を行うなどしています。
当初はベルリン市内ウイルメルスドルフ区ナッサウッセ街53番地のフラウ・テージング家に寄宿し、ドイツ逓信省に視察を申し入れました。ところが全く取り合ってもらえず、友人から柔道の練習に誘われて汗を流した柔道クラブの道場主が取り成したというエピソードが残っています。逓信省視察の後に、当時世界の電気通信技術をリードしていたジーメンス・ウント・ハルスケ社を訪問しました。同社では中央研究所主任技師で長距離電気通信技術の世界的権威として知られるH・F・マイヤー博士と無装荷ケーブルの是非について意見を交わし、多くを学びました。また、マイヤー博士から提示された多くの資料を日本に送り、無装荷ケーブルの開発に役立ててもいます。マイヤー博士は無装荷ケーブルを通信網に採用することについては否定的で、両者の一週間に及ぶ激論は物別れに終わりました。松前は「このときほど、言葉の壁が相互理解をいかに妨げるか、痛感したことはなかった」(『わが昭和史』)と語っています。この苦い経験が「国際化時代を迎えて、語学の勉強をもっともっとやってほしい」という若者たちへの松前の想いになり、本学が語学教育に力を入れる原点となります。また松前は、「反対論は進歩の母である」と語り、反対に遭遇することは成功に至る条件の一つとしています。のちに無装荷ケーブル通信方式が実用化され、1938年に共同発明者で建学の同志の一人である篠原登が、オスロで開催された国際電信諮問委員会で無装荷ケーブルを紹介した帰途、ドイツのジーメンス・ウント・ハルスケ社を訪ねマイヤー博士と面会した時、博士は日本で無装荷ケーブルを採用・実施していることに敬意を表し、「松前博士によろしくお伝えください」との言葉を篠原に託しています。
およそ3カ月後、宿所をシュパンダウ区ジーメンス街イレーネ夫人宅に移した松前は、引き続き電信電話関係の主要機械工場の視察や学者・技術者などを訪問して、無装荷ケーブルについて意見を交換しました。
松前は、ベルリンを拠点にドイツ国内をしばしば旅行しており、2つの印象深い旅について記しています。1つは、1933年秋の半ば、ウィッテンベルクからヴァイマル、チューリンゲン、ヴァルトブルクの訪問です。チューリンゲンでは、マルティン・ルターが滞在したヴァルトブルク城を訪れ、宗教改革の口火を切ったルターの偉業を偲びました。もう1つは11月の半ば、ライン川を遡り、ヴォルムスを経てハイデルベルクに、そしてストラスブール(フランス)を経てチューリッヒ(スイス)、その後ミュンヘンを経由しベルリンに戻っています。ヴォルムスではルターの銅像を見学、ハイデルベルクではカントやヘーゲルといった哲学者を偲んで3日間散策をしています。松前が旅したこの時期はちょうど国会選挙が行われ、ヴォルムスやハイデルベルクの町にはそこかしこにナチスのハーケンクロイツの旗が掲げられていました。ハイデルベルクでは、町中ナチスの示威行動と威圧運動で哲学町らしからぬ騒然たる光景でした。松前は「何処に行つても血迷つたる独逸の姿を見せられ」(『デンマークの文化を探る』)たと否定的に述べています。
松前が現地で撮影した写真からは、その他にもドイツ到着後すぐの6月上旬にはポツダム、10月1日にはバイエルンを訪れるなど、頻繁にドイツ国内を旅行していたことが分かります。寄宿先のイレーネ夫人は「ひっそりと勉強しているかと思うと、突然爆発するような号令をかけ、デンマーク式の体操みたいな真似をするし、突拍子もない時に不意に旅行を思い立って、四、五日も家をあけてしまう。しかも行き先が普通の観光客の見に行きそうなところでは全くない。」と驚いていたようです(渡辺啓助「無装荷松前」『新青年』1942年2月号)。
ドイツでのエピソード①役立った柔道
ベルリンに到着した松前は、ドイツ逓信省のヘップナー工務局長に施設の視察を申し入れました。しかし、返事は「ノー」でした。松前は当時のドイツ状況について、ヒトラーによるナチス政権の基礎がようやく固まったばかりで、政治機構を再組織する途上であったため、視察が拒否されたのではないかと推測しています。
そんな松前の元に、日本での松前の柔道歴を知っている北畠教真※五段が訪ねてきます。北畠は仏教大学卒業後、ドイツで哲学の勉強をしながら柔道の指導をしていました。北畠は自分が教えている柔道場を松前に案内し、ベルリン柔道倶楽部の幹部を紹介してくれたのです。その中に、道場の理事長格であるグラゼナップがいました。彼はヒトラーがミュンヘンで旗揚げした時の7人の同志の一人でした。
柔道着に着替え、汗を流した後、松前らはビールで喉をうるおしながら、ドイツ柔道のあり方や講道館の思い出話などに花を咲かせました。その席で松前が、日独間の無線電話を開通して、日本とヨーロッパの間を直通させたいこと、そのために先日逓信省の施設を視察したいと申し出たが断られたことなどを語ると、クラゼナップは大いに驚き、ヒトラーに直接電話をしはじめたのです。
翌朝にはドイツ逓信省は大騒ぎとなり、松前の下宿に電話が入りました。逓信省に出向くとヘップナー工務局長が丁重に出迎えて、松前に視察をしてくれと頼むのです。松前は既に他所の見学スケジュールを立ててしまったとして断ります。ヘップナーが「政府の決定なので視察をOKしていただかないと私の首が飛ぶ」と泣かんばかりの口調で食い下がるので、気の毒になった松前は、視察することを受け入れました。松前は、ドイツ逓信省管轄下の電信電話関係施設を視察することができるようになり、加えて、これ以後日本からドイツに留学する者が円満に視察を許されるよう確約を取りました。
松前は『発明記』で「これは柔道が生んだ思わざる収穫であった。その後一度グラゼナップ君に会った時、彼は私の顔を見るなりにやりと笑い、握手を求めた」と記しています。後に松前は国際柔道連盟の会長に就任した時、「世界各国の柔道組織の幹部には、ふだんは簡単に会えないようなその国の重要な人物が数多くいる。そういう人達と柔道を通じて交流することが相互理解と世界の平和につながるのだ」と語っています。その根拠が、欧州留学時代のこの体験だったのかもしれません。
※北畠 教真(きたばたけ きょうしん)1904年8月18日~ 1969年2月14日
浄土真宗本願寺派の僧侶、政治家、参議院議員
ドイツでのエピソード②嘉納治五郎との出合い
松前重義のドイツ・ベルリン滞在中、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎も当地を訪れています。嘉納は1933年当時、国際オリンピック委員会の委員として、6月にオーストリア・ウィーンで開かれた同委員会に出席しました。1940年に東京にオリンピックを招致するため、また将来的に国際柔道連盟を創設する足掛かりを築くため、精力的に欧州各国を訪問しています。
嘉納に随行した小谷澄之氏によると、嘉納一行はシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断、モスクワを経由して6月3日にウィーンに到着。およそ2週間滞在した後、6月中頃にドイツに移り、ベルリンを中心に7月末日までドイツに滞在しました。ベルリン大学をはじめとする各地の学校や警察、工場、町道場などを見学し、柔道の指導や講演を行ったそうです(小谷澄之、1984年『柔道一路 海外普及につくした五十年』ベースボールマガジン社)。
ベルリンの地で松前は、中学生の頃から打ち込んできた講道館柔道の創始者・嘉納と初めて面会します。嘉納のもう一人の随行員、鷹崎正見氏と松前が旧知の仲だったこともあり、松前が嘉納の講演や指導の手伝いをすることもありました。
松前は嘉納に抱いた印象について、「先生は小柄なかたであったが、羽織袴姿で歩かれると不思議に大きく見える器量の持主であった。先生は語学にお強く、ドイツ語もなかなか達者で、講演や指導解説はほとんど通訳ぬきであった。しかも話の内容は哲学的であり、かつ科学的である。(中略)嘉納先生の講演や指導解説がドイツ柔道界の発展や普及に裨溢したところのものは、まことに大であった。やはり先生は一流の国際人であった。ドイツ人柔道家たちが小柄な先生を仰ぐこと神に対するがごときであった情景が、今でもまぶたに浮かぶほどである。」(『わが人生』)と、感慨を込めて振り返っています。
なお、小谷氏は1968年4月、東海大学体育学部に武道学科が開設されると同時に、教授に就任しています。
第4章 スウェーデン・ノルウェー・デンマーク(1回目)
松前は、8月の2週目くらいから3週間ほど北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマーク3カ国を訪れています。このことは9月2日付で滞在中のベルリンから、兄顕義に宛てて送った絵はがきに「スエーデン ノールウエイ デンマークの旅を終へて昨夕ベルリンに帰りました。三週間もあちこち言葉の違ったところに行くのは頗る疲れます。これから又仕事に取掛ります」と記されていることから分かります。
松前は翌年の冬季にデンマークを訪れたことについて「私は北欧の文化を探るに最も良い時季を考へた。而して冬季が其の目的を達するに最良の時季であると言ふ結論を得た」(『デンマークの文化を探る』)と述べています。この結論を得るためには、まず夏季の北欧、特に酪農が盛んなデンマークの農村を経験し、冬季の農村と比較する必要があったと思われます。