監修 学校法人東海大学望星学塾副塾長・学園史資料センター長 橋本 敏明
ごあいさつ
若き日に汝の思想を培え
若き日に汝の体躯を養え
若き日に汝の智能を磨け
若き日に汝の希望を星につなげ
この四つの言葉は学校法人東海大学の創立者松前重義が、学園の母胎である「望星学塾」に掲げたものです。それ以降、本学園の建学の精神の一端を示す言葉となり、また教育の根幹をあらわす信条(モットー)となりました。しかし、私たちはこの言葉をお題目のように唱えるだけで、思考停止に陥ってはいないでしょうか。この言葉ひとつひとつに意味があり、学園の歴史があり、松前の想いがあります。それを正しく理解し、現在の学園、ひいては社会、世界に生かして、未来を拓いていく言葉として受け止める必要があるのではないでしょうか。
今回の展示では本学園に残る、松前による建学の精神を表す資料を改めて紹介し、四つの言葉の表記における歴史的変遷や、その意味を掘り下げます。理想と現実の狭間で生きる私たち現代人が、人生を考える一助となれば幸いです。
第1章 建学の精神を表すもの
学園には建学の精神を表すものがいくつも残っています。その代表的な例が、四つの言葉を投影して製作された「星を仰ぐ青年の像」で、東海大学湘南キャンパスと付属大阪仰星高等学校に設置されています。オリジナルの像は1958年6月、建学15周年記念の一環で、当時本学教員だった舟越保武氏によって制作されました。建学の精神のシンボルとして、「清く、たくましく、青年のもつ美しさを表現するのが目標だった」と舟越氏は述べています(『東海大学新聞』第108号)。
その他にも創立者松前自身が社会に広く伝えるために記念碑として残したものがいくつかあります。望星学塾の玄関前には「望星学塾発祥の地」碑文が設置されています。碑文には「望星の名は汝の希望を星につなげに由来する」と記されるとともに、「ここに東海大学は出発した」とあり、望星学塾が東海大学の母胎であると明記されています。
同じく望星学塾には1935年に今の望星学塾記念館の建物が建設された時に、「望星学塾上棟式の詞」が天井裏に打ち付けられ、望星学塾設立の由来と趣旨が記されています。そこには「余は初め内村鑑三先生により基督の福音を信じ聖霊に促れて基督教的教育を興すの野望を有つに至れり」とあり、内村鑑三の影響を大きく受けたことがわかります。
東海大学札幌校舎には「内村鑑三記念碑」(東海大学第四高等学校創立20周年記念碑)があり、ここにも内村の影響を受けて教育事業をはじめたことが記されています。なお、この碑では「汝の希望を天駕に繋げ」という言葉が刻まれています。
「星を仰ぐ青年の像」関係資料
「望星学塾発祥の地」碑文
「望星学塾上棟式の詞」
「内村鑑三記念碑」(東海大学第四高等学校創立20周年記念碑)
第2章 四つの言葉の変遷
四つの言葉は最初から現在の形にまとまっていたわけではありません。松前が手掛けた教育活動の場所や形態、規模が移り変わる中で、具体的には望星学塾(1936年開塾)から英世学園(1946年設立)、そして東海大学と継承されていく間に、現在の形へと収斂していったのです。特に戦後の1945年から1946年にかけて、大きな変化が見られます。
松前は1945年には〝汝の聖なる希望を天空の星に繋げ〟と表現し、1946年には英世学園で学び働く若者たちに〝若き日に汝の心田を培へ 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の體軀を養へ〟(「編集後記」『望星』創刊号)という言葉を贈っています。同年の英世学園の日本国民学舎の入学案内には〝汝の希望を聖なる天空の星に繋げ〟との表記が。また、同1946年9月10日発行の『望星』第3号に掲載された松前著「汝の希望を星に繋げ」には、宮崎滔天の自叙伝『三十三年の夢』の序文に描かれた想いを代弁する形で、当時の青年たちに〝青年よ雄図を抱け、若き日に汝の野望を星につなげ〟と記しています。同年10月1日に発行された東海大学の前身、東海科学専門学校校友会誌『建学』第1号では〝汝の野望を星に繋げ〟と揮毫した書が巻頭に掲載されています。1981年の対談では松前自身が、「(前略)教育研究会をやったり、望星学塾をつくったりした。(中略)それが英世学園となり、東海大学になってきたわけです。そういう時に『若き日に汝の思想を培え』ということばが浮んできた。」と語っています(『東海大学建学の記』)。
※宮崎滔天
松前と同郷で熊本県出身。自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。中国革命を志し、日本に亡命中の孫文の活動を援助した。1900年、孫文が挙兵を決行(恵州事件)。滔天は武器調達に奔走したが挙兵は失敗し、浪曲師へ転身した。1902年に半生の自叙伝『三十三年の夢』を刊行し、アジア解放の野望に憑かれた青年(滔天自身)の理想主義とロマン主義的熱情と行動をのびやかな筆致で描いている。
望星学塾とは?
内村鑑三と出合い、人生に対する使命感を深く認識し、教育による人材育成・国づくりを志した松前重義は、自宅で聖書や教育に関する研究会を開くようになりました。この研究会には、妻信子をはじめ、篠原登や大久保眞太郎、逓信省工務局の技師たちが参加し、松前はこれを通じて人生の友人、刎頸の同志を得ました。(企画展『松前重義と建学の同志たち』も参照)
無装荷ケーブル通信方式の研究で功績が認められた松前は、電気学会より浅野博士奨学祝金を授与され、これを元手にデンマークの国民高等学校を手本とする、キリスト教精神に基づいた青年塾を創設しました。1935年6月8日、現在の東京都武蔵野市西久保の自宅敷地内に浅野博士奨学記念館を棟上げし、やがて「望星学塾」と名付けられます。
望星学塾は松前の自宅で行われていた聖書(教育)研究会の流れをくみ、それを発展させたもので、当初の参加者はこの研究会のメンバーが中心でした。1939年に塾舎を改築。寄宿舎・図書館兼講堂を置くと、新たに寮生を募集して、青年道場としての性格を強めていきました。塾主は松前重義、塾監は篠原登、実務は大久保眞太郎が担当し、顧問は梶井剛・佐藤藤太郎(武蔵野学園小学校長)が務めました。望星学塾には寮生だけでなく、松前の理念に共鳴した技術者などが通い、集まった塾生たちは、松前や妻信子、篠原、大久保といった同志たちによる協力のもと、公私の別なく、自由な、家庭的な雰囲気の中でさまざまな立場の青年たちが相互に交流し、人間的成長を遂げていきました。
教育の場として確かな成果をあげていた望星学塾でしたが、1941年にアメリカとの開戦によって松前に対する憲兵の尾行、当局の厳しい監視などで集会が途絶えがちになっていきます。食糧をはじめとする生活必需品の逼迫など、アジア太平洋戦争の影響で次々と塾生たちが去り、1944年に松前が二等兵として召集されるに至って望星学塾の活動は休止状態となってしまいました。
- 「望星」の由来
「望星」とは、内村の講演を通じて知った19世紀アメリカの思想家・詩人ラルフ・エマーソンの「汝の車を星につなげ」(Hitch your wagon to a star)という言葉を元に、松前が「車」を「野望」や「希望」に読み換えて塾名にしたことが由来です。
- 望星学塾の活動
毎週日曜日の聖書研究会が柱となり、月に1回、外部から講師を招いて塾舎で講演会を開催しました。また、一般を対象にした塾舎外での講演会(望星講座)も行いました。このような知的活動に偏ることなく、毎週水・土曜日にはデンマーク体操で汗を流しました。デンマーク体操は農村青年の体躯を養うため創案された律動的体操で、松前のデンマーク視察の時、国民高等学校で教育の柱の一つとなっていたことから、望星学塾において取り入れられました。塾則で塾生に対してキリスト教の信仰を強要することなく、聖書研究会への出席なども自由となっていましたが、塾生たちは自主的に参加しました。
また、内村鑑三の思想およびキリスト教の普及活動をするために、日本伝道協会を創設して、事務所を望星学塾に置き、台湾やフィリピン、北京に伝道のため人を派遣したほか、内村鑑三の高弟たちと松前で共著の出版もしています。
- 戦後の望星学塾
戦後における望星学塾の再建は、1976年にかつての塾舎に約50枚の畳を敷いて柔道場をつくり「松前少年柔道塾」を開塾したことに始まります。4年後、手狭になったため改新築を開始し、これを機会に子供のみならず一般コースを設定して「松前柔道塾」と改称。翌1981年に新塾舎が完成し、体育活動に加え、戦前からの活動を引き継ぐものとして、1983年に「望星講座」を再開しました。その他、スポーツ・健康教室、カルチャー教室など地域社会とかかわる教育活動を展開。それは戦前の学塾の理念を、戦後社会の状況変化に対応させていくことでした。また、この新塾舎新築を機として、望星学塾は東海大学理事長室の一部門に位置づけられ、さらに現在は学校法人東海大学の直轄機関となっています。
英世学園とは?
英世学園とは、終戦直後の1946年1月10日付で設立認可された財団法人です。
1941年から始まったアジア太平洋戦争によって国内情勢が逼迫する中、危機感を募らせていた松前は、我が国の生産力調査を行いその問題点を明らかにしたうえで早期の和平工作を唱え、東條英機内閣を強く批判しました。1944年7月、突然、懲罰召集を受け二等兵として戦地に送られますが、九死に一生を得て帰還。終戦後、逓信院総裁に就任すると陸軍より二等兵召集事件の補償として100万円を受領することになりました。松前は同志である濱田成徳、篠原登、大久保眞太郎ら(企画展『松前重義と建学の同志たち』も参照)と相談して、それを日本の戦後復興のための農民教育に使用することにします。そして敗戦後のデンマークを復興させた国民高等学校を範とした教育を実施するために、財団法人英世学園を設立したのです。
英世学園は、養成施設として国民農工学校と有明中学校、事業施設として磐梯農工科学研究所と三角農工科学研究所などの設置を計画していました。実際には福島県猪苗代湖畔(福島県耶麻郡翁島)の高松宮別邸に日本国民学舎と農工科学研究所、熊本県宇土郡三角町(現・宇城市)に有明中学校が開設・設置されました。設立趣意書には「国土の地田開発と国民の心田開発とを企図せんとする」とあり、前者地田開発が農工科学研究所に、後者心田開発が日本国民学舎と有明中学校によって具現化されます。
しかし、設立から間もない同1946年9月16日、松前は公職追放の該当者に指定され、次いで10月28日には教職追放にも該当することが新聞で報じられました。これにより松前は英世学園の教育事業から身を引くことになり、日本国民学舎は第1回の卒業生を出したところで廃止となりました。有明中学校もまた1947年に教育制度が改革され、1年で三角町による運営に移行することになります。農工科学研究所は日本国民学舎の施設として製材事業に着手しましたが、日本国民学舎の廃止で事業から撤退。その後、別法人となり1929年に東京に移転。望星理工学研究所と改称して研究活動を継続しましたが、松前の公職・教職追放が解除され東海大学に復帰すると、その研究は本学の各部門に引き継がれました。
なお、英世学園は1951年7月頃に翁島の高松宮別邸から引き上げて、活動を熊本県に移し、同年8月23~25日に阿蘇夏期青年学校を開催しています。その後、1958年1月に青年大学講座を東海大学清水校舎で開催、1963年までに熊本の東海大学第二高等学校や阿蘇などの各地で4回行われました。しかし、その後の活動はなく、英世学園の残余資産も東海大学に全面的に寄付されました。
- 「英世」の由来
学園設立趣意書には、「我等は日本の生める世界的偉人野口英世博士が、幾多の辛酸を嘗めつつ毅然として志を屈せざしりその高風を偲び、国境を越えて真理の究明に生涯を捧げ尽した偉大なる業績を想い、此の碩学を生んだ福島県磐梯山麓を卜して日本再建の一礎石たらしむべく、国民農工学校と農工研究所の創立に志した。」とあります。松前は「猪苗代湖畔は本州の中心にある。湖水の水は東に流れて太平洋に、西に流れて日本海に注いでいる。猪苗代湖の水を清めて日本の社会は清まる。」「この地は野口英世を生んだ地である」と述べています。「英世」とは野口英世を讃え名付けられた名称です。
- 日本国民学舎の教育
日本国民学舎の開校式は、1946年11月15日に行われました。仮校舎として猪苗代湖畔翁島の高松宮別邸(天鏡閣)を借用しました。教育は全寮制を基本として、冬の農閑期の4カ月間(11月15日より翌年2月15日まで)に実施。入学資格は、学歴を問われませんでしたが、学科聴講の実力ありと認められた者で、年齢は18歳以上。そして教授法は「学科、講話及ビ研究討議等ニヨリ教科書二依ラザル綜合的教導ヲナスヲ以テ要旨トス」とあり、教科書を使わず、筆記もせず、試験はいっさい行わず、修業証書なども与えないというものです。「生徒ハ各自ノカニ応ジ、身二修メ得タル実力、自覚ニヨル実践ヲ以テ、本学舎出身者タルノ実証トス」として、デンマーク国民高等学校を範としたものでした。入舎生は50名前後で、近辺出身者は通学していた者もいたようです。
松前の公職・教職追放により日本国民学舎は閉鎖、英世学園は教育事業から撤退することになりましたが、その精神は湖畔聖書学校に引き継がれることになります。
- 有明中学校
旧制有明中学校は、熊本県宇土郡三角町(現・宇城市)からの熱心な誘致によって、1946年5月15日に同町西港の旧町役場庁舎を仮校舎として開校しました。三角町には、交通の便や食糧事情によって中学進学を断念せざる得ない国民学校の卒業生が多数おり、町長の岩見隆之が、熊本中学校の同期生で逓信院総裁の松前に中学校設立を打診して、英世学園にて実現することになったのです。
しかし、翌1947年2月26日の臨時閣議で、当年4月からの新しい教育制度実施が決定。各市町村で新制中学校の設置と義務制が行われることになりました。有明中学校も私立の新制中学校や新制高等学校に転換するか、町へ移管し公立中学校に転換するか検討した結果、町からの移管申し入れを受け入れる形で、その使命を終えることになりました。在校生100名あまりはそれぞれ出身地域の新制中学校に転校し、その内の25名は新制三角中学校の2年生に編入されました。
- 農工科学研究所
農工科学研究所は、日本国民学舎が校舎とした猪苗代湖畔翁島の高松宮別邸に設置されました。製材事業を行うため、1946年に近くの福島県耶麻郡千里村(現 猪苗代町)にある地元の製材所と共同経営する形で実習工場を設立しましたが、翌1947年6月に製材事業から撤退。この年に英世学園から分離独立して財団法人農工科学研究所を設立します。教育事業に携われなくなった松前が、戦後復興活動を継続するために、英世学園から分離独立する必要があったと『東海大学五十年史 通史編』では記載されています。
研究所では、高周波による漆器の素地乾燥、超短波治療法、どんぐり・栃の実からのアルコール抽出、渋柿の加工などの研究が行われました。その後、1949年に高松宮別邸(天鏡閣)の一部を焼失するなどの不祥事があったため、東京・府中の明星高等学校の一隅に仮移転し、さらに武蔵野市吉祥寺(当時)へ移転して、望星理工学研究所に改称しました。松前の追放解除まで研究は継続され、事業団体への技術指導、設備指導などの活動も続けられ、その研究は東海大学の各部門の研究機関に引き継がれました。
第3章 四つの言葉の意味
四つの言葉の意味について、松前自身は1961年、東海大学入学式における式辞で、「体をしっかり鍛えて、そして堅い思想をもって勉強にはげんで最後の死に至るときには希望の眼指しをもって最後まで希望満々として死の床につくようなたくましい人生を送ってもらいたい」(『建学の目的と本学の使命―東海大学昭和卅六年度入学式に於ける学長式辞―』東海大学出版局)と想いを語っています。本当の意味を知るには、松前の根本にある内村鑑三の思想や聖書などを研究・理解する必要があるのかもしれません。望星学塾というささやかな私塾から始まり、戦時下の困難な時代に生まれた言葉が、今日の学園のような大きな組織で教育の指針となっている、その背景を考える必要があります。
また、四つの言葉の順番について松前は、1971年の東海大学入学式における式辞で、「注意しなければならないことは、その順序であります。思想、体躯、知能、そして最後は希望。とにかく思想が第一であります。第二にはからだであり、第三には知能であります。そうしてダイナミックな希望の生涯を送れというのであります」(『東海』25号)と述べており、また1983年の入学式の式辞では、「われわれがめざす教育とは何か、われわれが理想とする道に到達するために、諸君に何を期待しているのか。それは、まず第一に思想を培え、ということなのです。(中略)この思想を基盤として、その上に汝の体躯を養え、すなわち体を鍛えよといっています。(中略)確固とした思想と健全なる体、この二つを持っていれば、どんな困難にもくじけることはない。(中略)こうした中で、どんどん勉強をしなさい。すなわち汝の知能を磨け、ということになるのです。そして、最後には高い理想に向かい、汝の希望を星につなげ、と提唱しています」(『東海』64号)と順番が大切なことを語っています。
四つの言葉は、松前自身の体験からきた言葉です。内村鑑三の影響により思想を培い、柔道で体を鍛え、その2つを基礎に、若き日に勉学や研究に励み、無装荷ケーブル通信方式という画期的な発明を成した松前は、教育による人づくり、国づくりという高い希望を抱いて、同志とともに昭和という激動の時代に望星学塾の開塾や東海大学の建学などを成し遂げたのです。
松前の「若き日に汝の~」という呼びかけに、私たちは応えられているでしょうか。松前のような具体的な行動がとれているでしょうか。四つの言葉に改めて向き合うことが、理想と現実の狭間で、生き方や働き方を見つめ直すきっかけになるのではないでしょうか。
学園機関・校舎にある「四つの言葉」創立者揮毫一覧
注:原則として複製は対象外とし、廃止された機関・校舎は「※(旧)」と表記
校舎・機関 | 揮毫文字 | 画像 | 年月日 | 落款 | 形状 | 所在 | 備考 |
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東海大学品川キャンパス(旧 高輪校舎) | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 平成13年11月1日 (2001) | 横長 木製 | 4号館エントランス | 木製復刻版、短期大学部「たかなわ会」寄贈 | ||
東海大学湘南キャンパス | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和38年中秋 (1963) | ○ | 横長 額装 | 松前記念館地下講堂ロビー | ||
東海大学熊本キャンパス | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和48年4月15日 (1973) | ○ | 縦長 額装 | 旧阿蘇校舎1号館総長室→修復後、熊本校舎新1号館エントランスに掲示 | 「九州東海大学開学記念」 | |
東海大学札幌キャンパス | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和42年陽春 (1967) | ○ | 横長 額装 | メッセ棟1階エントランス | ||
東海大学札幌キャンパス | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | (昭和42年カ) (1967) | ○ | 縦長 額装 | ※要確認 | 「東海大学札幌校舎落成式に際して」 | |
付属相模高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | ○ | 縦長 額装 | 校長室 | |||
付属静岡翔洋高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星に繋け | 昭和32年4月7日 (1957) | 縦長 額装 | 校長室 | 「入学式に際して」 | ||
付属熊本星翔高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和36年4月10日 (1961) | 縦長 額装 | 校長室 | 「開校式に際して」 | ||
付属諏訪高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和38年10月 (1963) | ○ | 縦長 額装 | 校長室 | 「本館落成記念」 | |
付属札幌高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | (昭和39年4月) (1964) | ○ | 縦長 額装 | 校長室 | 「第四高等学校開校に際して」 | |
付属福岡高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和42年陽春 (1967) | ○ | 横長 額装 | 校長室 | 横長版 | |
付属福岡高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和43年陽春 (1968) | ○ | 横長 額装 | コモンホールエントランス | (旧)福岡短期大学と共有、横長版 | |
付属大阪仰星高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなげ | ○ | 横長 額装 | 校長室 | 横長版 | ||
望星学塾(武蔵野市) | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星に繋け | 昭和30年5月5日 (1955) | ○ | 縦長 額装 | 望星学塾記念館 | ||
望星学塾(武蔵野市) | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和49年初冬 (1974) | ○ | 横長 額装 | 本館階段踊り場 | ||
松前重義記念館(嘉島町) | 若き 日に 汝の 希望 を 星に 繋け | 昭和43年1月28日 (1968) | ○ | 横長 額装 | 展示室 | ||
※(旧)東海大学旭川校舎 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和47年4月18日 (1972) | 横長 額装 | ※要確認 | 「開校式に際して」、横長版 | ||
※(旧)東海大学旭川校舎 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和47年4月18日 (1972) | ○ | 縦長 額装 | ※要確認 | 「開校式に際して」 | |
※(旧)短期大学部(静岡) | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | ○ | 縦長 額装 | 5号館講堂 | |||
※(旧)医療技術短期大学 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和49年4月10日 (1974) | ○ | 縦長 額装 | 資料センターに移管 | ||
※(旧)福岡短期大学 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和41年陽春 (1966) | ○ | 横長 額装 | 資料センターに移管 | 横長版 | |
※(旧)工業高等学校 | 若き日に汝の思想を培え 若き日に汝の体躯を養え 若き日に汝の智能を磨け 若き日に汝の希望を星につなけ | 昭和38年10月 (1963) | ○ | 縦長 額装 | 総合資料センター (旧一高校長室) | 「本館落成記念」 |
- 写真は、学園史資料センターの学園史編纂員が資料調査の時に記録として撮影したもの、また一部で記念誌・年史で利用されたものを掲載しています。
- ※要確認のものは、現在、学園史資料センターで確認ができていないものです。ご存じの場合、また間違えなどありましたら下記にご連絡いただけますと幸いです。
- その他、創立者松前重義直筆の「四つの言葉」の揮毫で未掲載のものがありましたらご連絡ください。ご協力をお願い致します。
ご連絡先はこちら
資料紹介
「松前重義先生像」(胸像)設置年と設置場所一覧
注:付属相模高等学校にある胸像以外は、北村西望氏が制作者。掲載は設置年度順
校舎・機関 | 設置場所 | 設置年度 | 画像 | 備考 |
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付属相模高等学校 | 3号館前 | 1972年 | 芸術の先生制作の像 | |
望星学塾 | 望星学塾正門玄関前 | 1982年 | ||
渋谷キャンパス(旧 代々木校舎) | 1号館前庭 | 1982年 | ||
清水キャンパス | 正面ローターリー植栽帯 | 1982年 | ||
熊本キャンパス・付属熊本星翔高等学校 | 正門前 | 1982年 | ||
付属浦安高等学校 | 松前総合記念体育館正面西 | 1982年 | ||
付属札幌高等学校(札幌キャンパス) | 玄関横 | 1982年 | 旧付属第四高等学校1号館正面玄関横より移設(2016年) | |
付属市原望洋高等学校 | 1号館前 | 1982年 | ||
付属甲府高等学校 | 正門右側 | 1982年 | ||
医学部付属病院(伊勢原キャンパス) | 東海ホール | 1982年 | ||
※(旧)沼津校舎 | ※要確認 | 1982年 | ※2013年撮影 | 1号館シリンダー植栽前にあった。2017年、校舎を沼津市に寄贈 |
※(旧)短期大学部(静岡) | 1号館と体育館の間の東側植栽帯 | 1982年 | ||
※(旧)福岡短期大学 | ※要確認 | 1982年 | ※2013年撮影 | 1号館前にあった |
湘南キャンパス | 松前記念館前 | 1983年 | ||
阿蘇実習フィールド | ※要確認 | 1983年 | ※2013年撮影 | 2020年、1号館が熊本地震の震災ミュージアムとして公開 |
※(旧)旭川校舎 | ※要確認 | 1983年 | ※2013年撮影 | 松前記念図書館玄関ホールにあった。2016年、校舎を旭川市に寄贈 |
付属諏訪高等学校 | 玄関前 | 1983年 | 旧校舎から2008年に移設 | |
付属自由ケ丘幼稚園 | 玄関前 | 1983年 | 旧園舎から1997年に移設 | |
付属かもめ幼稚園 | 園庭(事務室前) | 1983年 | ||
松前武道センター(オーストリア・ウィーン市) | 正面玄関ホール | 1984年 | 施設をウィーン市に売却。現地に残す | |
東北大学 | 1985年 | |||
付属福岡高等学校 | 松前記念体育館横 | 1986年 | ||
ヨーロッパ学術センター(デンマーク) | 新館(会議棟)1階ホール | 1986年 | ||
嬬恋高原研修センター | 正面玄関左側 | 1988年 | ||
付属大阪仰星高等学校 | 正面玄関植栽帯 | 1993年 | ||
※(旧)静岡事務所 | 正面玄関左側植栽帯 | 1993年 | 現・ヤマダユニア株式会社本社 | |
※(旧)医学部付属大磯病院 | ※要確認 | 1994年 | 本館1階外来ホールにあった。写真は撤去時のもの | |
海洋学部博物館 | 海洋科学博物館玄関ホール東側 | 1994年 | ||
札幌キャンパス | 国際交流会館内 | 1996年 | ||
付属高輪台高等学校 | 正門横右側 | 1998年 | 1998年、新校舎落成 | |
松前重義記念館(熊本) | 展示室内 | 1998年 | ||
松前重義記念球場(ロシア) | モスクワ大学 | 1998年 | ||
ハワイ東海インターナショナルカレッジ(パシフィックセンター) | ※要確認 | 1998年 | 2015年、カポレイ地区のハワイ大学ウエストオアフ校内に移転 | |
ブルガリア歴史博物館 | ※要確認 | 1998年 | ||
国際武道大学(千葉県勝浦市) | ※要確認 | 1998年 | ||
※(旧)付属デンマーク校 | ※要確認 | 1998年 | 2008年廃校で施設をデンマークの国民高等学校に寄贈。現地に残す | |
品川キャンパス(旧 高輪校舎) | 1号館1階学生ホール | 2001年 | 2010年、現1号館竣工 | |
医学部付属八王子病院 | 2001年 | |||
公益財団法人松前国際友好財団 | 館内 | 2002年 | ||
東海大学湘南キャンパス硬式野球部合宿所(平塚市土屋) | 2022年 |
- 写真は、学園史資料センターの学園史編纂員が資料調査の時に記録として撮影したもの、関係者から提供を受けたものを掲載しています。
- ※要確認のものは、現在、学園史資料センターで確認ができていない事項です。ご存じの場合、また間違えなどありましたら、下記にご連絡いただけますと幸いです。
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参考文献
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 通史篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学七十五年史編集委員会『東海大学七十五年史 通史篇』(学校法人東海大学、2018年)
- 松前文庫編集委員会『松前文庫』第1~100号(東海教育研究所、1975~2001年)
- 『東海大学新聞』(東海大学新聞部・東海大学新聞会・東海大学新聞編集委員会、1955~2022年)
- 松前重義『東海大学建学の記』(東海大学出版会、1977年)
- 「松前重義と英世学園」編纂委員会『財団法人英世学園創立四十周年記念出版 松前重義と英世学園―その思想と行動』(東海大学出版会、1985年)
- 「松前重義と望星学塾」編纂委員会『望星学塾創立五十周年記念出版 松前重義と望星学塾―その思想と行動』(東海大学出版会、1986年)
- 松前重義『松前重義 わが昭和史』(朝日新聞社、1989年)
- 野城今日子「舟越保武《星を仰ぐ青年の像》について」(『成城美学美術史』第23号、2017年)
- 坂本雅子「北村西望作『松前重義先生像』に関する調査研究」(『東海大学短期大学部生活科学研究所所報』第17号、2003年)
- 坂本雅子「北村西望作『松前重義先生像』に関する調査研究2」(『東海大学短期大学部生活科学研究所所報』第18号、2004年)