内村鑑三
生没年 |
1861年3月23日(万延2年2月13日)~ 1930(昭和5)年3月28日 |
出身地 |
武蔵国江戸小石川(現 東京都文京区小石川) |
来 歴 |
日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。 高崎藩士・内村宜之の長男として、江戸小石川に生まれる。1874年、東京外国語学校(のち東京大学予備門)に入学。1877年、第2期生として札幌農学校に入学。東京外国語学校から札幌農学校にかけて新渡戸稲造、宮部金吾と同級。彼らと共に、キリスト教に改宗し、受洗を受ける。卒業後、開拓使御用係(のち札幌県御用係)、農商務省農務局水産課に勤めるが、1884年、役所を辞職し、米国に私費留学。1886年、アマスト大学にてJ・H・シーリー学長の感化により回心を体験し、福音主義信仰とそれから導き出される思想に基づいて行動をとるようになる。 帰国後、第一高等中学校在職中の1891年、教育勅語奉読式で「不敬事件」を起こし、職を辞す。この頃から旺盛な執筆活動を開始。1897年、新聞『万朝報』に入社。社会評論家としても世間で名が知られるようになり、足尾鉱毒事件では鉱毒反対運動にかかわるなど、社会運動家 としても活躍。日露戦争を機に「非戦論」を展開し、『万朝報』を退社。聖書に対する内在的な関心を深めていく。1898年『東京独立雑誌』を、1900年から『聖書之研究』を 創刊。翌年には『無教会』を創刊し、無教会主義を創唱。生涯、平信徒として聖書の研究と執筆活動を続けた。1918年からは、キリスト再臨信仰に基づく再臨運動を開始。1930年3月28日、死去。享年69歳。 |
逓信省に就職した松前重義は、「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、内村鑑三が主宰する聖書研究会や講演会に通いました。直弟子ではありませんでしたが、松前は内村に対して、いくつかの点で親近感を持ったと語っています。内村の高崎藩士を出自とする武士道的倫理、農商務省水産課での『日本魚類目録』編纂の業績、厳格主義・反骨精神は、松前が持っていた熊本の士風の中で柔道に取り組む姿勢、技官として逓信省に勤務し、持ち前の一度決めたら梃子でも動かない精神と強い正義感に一脈通じるものがあったのです(『東海大学七十五年史 通史篇』)。
聖書研究会で松前は、内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。そのなかで松前は、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。とくに、その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィが提唱する国民高等学校の姿を知り、そこに教育の理想の姿を見出し、松前は教育へと目覚め、決意し、志を立てることになるのです。国民高等学校の教育は、教師と学生が生活を共にし、自由に社会を論じ、哲学を語り合う活気に満ちた学校で「生きた言葉による学校」「民衆のための大学」といわれました。そこで1934年に松前は、その教育事情を視察するため、デンマークを訪問しています。学校とは「歴史観、人生観、使命感を把握せしめ、以て個々の完成に努力することにある」べきだということを実感し、この教育こそが豊かな酪農王国デンマークを築く原動力になっていることを目の当たりにしたのです。この体験を通して松前は教育による「国づくり」「国際平和」を理想に、望星学塾、英世学園、本学園の創設へとつなげていくのです。
東海大学付属市原望洋高等学校の前身は、1889 年に開校した女子独立学校です。女子独立学校は、女性にキリスト教信仰による知識と技芸を身につけさせることを目的にした学校で、初代校長には加藤俊子が就任しました。翌1890 年に東京府南豊島郡淀橋町角筈(現・東京都新宿区)に新校舎を建設し、女子独立の教育を目指しました。
1899年に加藤俊子が逝去すると、俊子の長男勝弥と親交があり『東京独立雑誌』を主宰していた内村鑑三が第2代校長に就任します。内村は、住居を校内に移し意欲的に女子教育に取り組み、聖書講読の「夏期講談会」を開催しました。しかし翌年には、『東京独立雑誌』をめぐる社員の対立が女子独立学校にも波及して、学校内にも内村派と反内村派の紛争が発生し、1900年8月に内村は校長を辞任することになりました。内村はその後も、1907年まで学校敷地内に居住して、同地で聖書講読を続けました。こうした粘り強い努力が、後に聖書研究会へと発展し、若き日の松前重義の思想に影響を与えることになるのです。女子独立学校は、その後、精華高等女学校となり、戦後は精華女子中学校・高等学校(経営母体は精華学園)となります。
しかし1973年に郊外移転をきっかけに生徒が減少し、経営困難な状況に陥ったところ、松前重義が「精華高等女学校の前身である女子独立学校の2代目の校長は内村鑑三先生である。内村先生が点してこられた教育の灯を消してはならない」と語り、精華学園に救いの手を差し伸べました。1975年に校名を東海精華女子中学校・高等学校に改称しました。1977 年には校名を東海大学精華女子中学校・高等学校に改称。その間、校舎や講堂兼体育館を建設して、学校としての施設を整えていき、1986年に男女共学の東海大学付属望洋中学校・高等学校として新たに発足。精華学園は東海大学の傘下に入ることになりましたが、学校法人精華学園はその後も付属浦安高等学校・中学校と付属望洋高等学校を所管し、1993年に発展的に解消しました。2016年、これまで以上に地域に根ざし、地元に愛される学校を目指して東海大学付属市原望洋高等学校に名称変更し、現在に至っています。
閉じる