※ 部分は、松前重義の言葉や記述
第5章 デンマーク
1934年1月18日~2月13日のおよそ1カ月に及び、国民高等学校や酪農学校の視察を行いました。その詳細は著書『デンマークの文化を探る』に記されています。1月18日にドイツからデンマークへ出発し、エスビョルグでホイスコール・ハイム(国民高等学校寮)や労働国民高等学校を訪問。ラーデルンの農酪学校を視察してから、ヴァイエンのアスコー国民高等学校やレイディング国民高等学校などを訪問。オーデンセではアンデルセン博物館を見学しています。オレロップ体操国民高等学校など各地の国民高等学校を訪問した後、コペンハーゲンのトルワルゼン博物館、グルントヴィ教会も見学しました。各地の国民高等学校で実際に学校生活を体験することで自然環境・施設・寄宿制度や教育の雰囲気などの把握に努め、デンマークの文化、国状に触れたのです。
その結果、内村鑑三の聖書研究会での講話や著書などを通じて松前が想像していた以上に、デンマークにおいて、N.F.S.グルントヴィの教育理念が、国民教育や農業振興の実践面で、非常に良く生かされているということが分かりました。コペンハーゲンで松前は、グルントヴィの母校であるコペンハーゲン大学も訪問し、彼が学んだ教室を参観した後、校庭に建てられたグルントヴィの銅像の前で、「私もいつの日か、祖国の将来のため、人間教育に邁進したい」(『わが昭和史』)と心に誓ったと述べています。
この時の体験から、松前は「日本の真の建設もこのニコライ・グルントウィのデンマーク再建の精神とその教育運動に礎を置くべきである」(『東海大学建学の記』)との確信に至ります。留学から帰国後、無装荷ケーブル通信方式の開発に成功した松前は、その功績に対して電気学会から浅野奨学祝金を贈られます。同志らと使い道を熟考した上で、妻の父森三木からの借入金を足し、東京府下武蔵野町に浅野博士奨学記念館を建築しました(1935年6月8日上棟)。自宅敷地内の記念館で念願のデンマーク国民高等学校に倣った教育活動の始まりです。この私塾・望星学塾が、東海大学の母胎となりました。
東海大学の前身にあたる全寮制の航空科学専門学校や、東海大学湘南校舎にあった湘南望星学塾なども、教員や塾監・塾母が生徒・学生と起居を共にする交流から、規律ある団体生活を通じて人間形成を図ろうとするデンマーク国民高等学校の教育に倣った、望星学塾の伝統を継承したものなのです。
第6章 フランス
松前は1934年2月13日にデンマークからドイツに戻りました。その時、家族に宛てた手紙には、「今デンマークを去らうとして居ます。明日午後八時にはいやなベルリンに帰る事でせう。カツレツの国、即ち独逸国(カツレツは外が茶色で中は真赤です。ナチスの服は茶色です。中はロシヤと全く同様の組織と精神を持つて居ます)を去るのも二月二十五日頃となるでせう。そしたら直ぐフランスに行きます。」と記しており、2月下旬にフランスに向かい、およそ1カ月滞在しました。
パリでの宿舎は、パリ国際大学都市日本館(通称「薩摩会館」)でした。そこで、後の東海大学にとって運命とも言える出会いがありました。建学の同志の一人となる、足利惇氏との邂逅です(当時、京都帝国大学講師)。1年以上前からサンスクリット語や古代ペルシア語の研究のためフランスに留学していた足利は、宿舎のロビーで卓球をしている松前と最初に言葉を交わしたと述懐しています。二人は1901年生まれの同い年です。互いの生い立ちや将来の夢などを語らううちに、電気通信工学とインド・イラン学という、専門を全く異にする者同士が理解を深め、唯一無二の友情を育むようになったのです。
足利は、松前のパリ無線電信局訪問時には通訳を務め、またフランス革命の遺跡見学などにも同行しました。足利は松前からデンマークの歴史や国民高等学校の話を聞き、「非常に大きな印象を与えずには置かなかった」と振り返っています。実際にフランス留学期間を終えた足利はその後、ドイツ滞在中にデンマークにも足をのばし、コペンハーゲン大学を訪れた他、2、3の国民高等学校を見学しています。1935年の帰国後に、関東公方系足利家(旧喜連川藩足利子爵家)第26代当主を継承。
後に松前が航空科学専門学校や旧制東海大学を設置したとき、松前は足利に文系の教員の人選や、認可に必要な図書の収集などを任せました。デンマークの教育思想を松前と共有していた足利の存在を抜きにして、今日の東海大学の文理融合という教育理念は成り立たず、総合大学としての東海大学の存在もまた、なかったと言えるでしょう。
松前重義と足利惇氏のエピソード
松前重義と足利惇氏は共に1901年生まれの同い年でした。足利は東京に生まれ、若くして仏教に興味を持つように。京都の同志社大学へ進学すると、英語やフランス語、ドイツ語と幅広く学び、やがて仏教の原語であるサンスクリット語を専門に定めます。大学卒業後、京都帝国大学文学部で講師を務めていた1932年夏、文部省の海外研究員としてフランスに派遣。研究課題は「梵語及び古代ペルシア語」でした。リヨンに約1年滞在した後、1933年の半ばにパリに移り、日本学生会館を拠点としました。ここで1934年3月ごろ、ドイツ、デンマークを回ってきた松前と出会います。
電気工学と古代言語学、2人の専門は全くの異分野でした。しかし足利は、「だんだん付合っていくうちにこのような学問を選択するに到ったわが人生の過去についても興味を持たれ、同時に松前さんが内村鑑三先生に会われ、その感激から受けた人生航路の決定、望星塾の真摯な精神的会合、さらに奥さんとの出合いなどのお話を伺ったが、これらの会話を通じて、松前さんと自分との間には色合いの大きな違いこそあれ、人生に対して『これで行こう』と言う不動の精神が、次第に相互の理解と接近を深めさせるようになった」(足利惇氏「松前さんとわがパリの思い出」『松前文庫』第1号,p.13-15)と振り返っています。
二人がフランスで同じ時を過ごしたのは、松前がイギリスに渡るまでの、およそ1カ月という短い期間でした。松前は足利に、朝早く部屋に来るよう言っておきながら、足利が訪ねるとまだ、高いびきをかいて寝ています。呼びかけても夢うつつの松前に、足利は平家物語の一節を高らかに朗誦。それを目覚ましに、松前の巨躯はベッドの上に跳ね起き、パジャマ姿のままでデンマーク体操を始める――。このやりとりは、松前がパリを離れるまで毎日のように繰り返されたといいます。
足利はフランスの後、ドイツ・ベルリンおよびイラン・テヘランに滞在し、1936年初秋に帰国。上京の際に松前の自宅を訪ね、信子夫人を交えてパリでの思い出話に花を咲かせました。
1946年の東海大学(旧制)開学にあたって松前は、足利に文科系の教員の人選を依頼しています。また足利は同年、松前が福島県・会津に農村青年の教育機関として開設した英世学園日本国民学舎での講義にも協力しました。1965年、京都大学を定年退官した足利は、東海大学の文学部長・教授に就任。その後1967年からは学長も務めました(1975年まで)。
足利は松前との関係性を「パリ時代に始まる両人の不断の友情、仏教的表現を借れば『一大因縁』とも言うべきものであろう」(同前)と表現しています。
第7章 イギリス
松前は1934年4月頃にフランスからイギリスに渡り、ここでも約1カ月滞在し、各地を視察・訪問しました。ロンドンでは詩人ジョージ・ゴードン・バイロンの家や内村鑑三が尊敬の意を表していた歴史家トーマス・カーライルの銅像などを見学しています。また、インターナショナル・スタンダード・エレクトリック社を訪問して、無装荷ケーブルについて議論を行っています。
松前のドイツ留学と前後して、逓信省で先輩にあたる白井武という人物が、やはり留学のためイギリスに派遣され、ロンドンに長期滞在していました。1933年秋に松前が、イギリスに白井を訪ね、共にロンドンのグリニッジ天文台を見学したというエピソード(本多静雄「戦前の技術者運動(第3回)」『松前文庫』No.6,1976年)がありますが、この時期に松前が一時的にイギリスに渡ったかは、はっきりしていません。
第8章 アメリカ
1934年4月末から5月初旬頃、松前はイギリスから蒸気船「第三オイロッパ号」でアメリカ東海岸のニューヨークに渡り、1カ月と少しの間アメリカ各地を回りました。アメリカでも、ベル電話研究所やAT&T社を訪問して、技術者たちと積極的に面会し、無装荷ケーブルについて質問を受けたり、議論を交わすなど、同国の電気通信技術の情勢を探っています。
また、マサチューセッツ州に足をのばし、内村鑑三が学んだアマースト大学を訪問した松前は、後に著書で「ニュー・イングランドの亜米利加にもあるまじき静かなる落付いた高気に接した」(『デンマークの文化を探る』)と述懐。同大学の校庭で撮影した写真の説明として、「芝生に横はつて天を仰ぎ乍ら恩師内村先生は此の校庭に教育せられた。本校校庭と日本の将来との間に大なる関係があると思つて感慨無量であつた」と記しています。(共に『デンマークの文化を探る』)
その他、ミシガン州デトロイトにある自動車製造大手、フォード社の工場を見学した松前は、組み立てラインの流れ作業に驚嘆しています。写真資料を見ると南部またはカリフォルニア州あたりの油田も訪問・視察したようです。このようなアメリカの高い生産力を目の当たりにしていた松前は、後に日本とアメリカの戦端が開かれると、「これはいかん。早く終戦に持っていかないと、とんでもないことになるぞ」(『わが昭和史』)と思い、日本の生産力を詳細に調査して米国との隔たりを報告し、終戦に向けて東條英機内閣の倒閣運動を展開しました。それが、1944年に二等兵として南方戦線に送られる懲罰召集につながったと言われています。この召集により、望星学塾の活動が停止してしまうのです。
カリフォルニア州ロサンゼルスでは、ウィルソン山天文台やロングビーチを訪れました。そこで松前自身が差別的な扱いを受けて不快な思いをしたことを、後に東海大学の講義「現代文明論」で学生たちに語っています。
終章 帰国
松前は、アメリカ西海岸のロサンゼルスまたはサンフランシスコから、日本郵船株式会社の貨客船「浅間丸」に乗船し帰国の途につきました。浅間丸の航海記録を調べると、第27次航海でロサンゼルスを6月4日、サンフランシスコを6月6日に出港しています(『就航90周年記念 客船浅間丸~サンフランシスコ航路をゆく~』日本郵船歴史博物館、2019年)。その後、6月11日にハワイ・ホノルルを経由して、6月21日に横浜港に到着しました。
到着したその日に逓信省に向かった松前は、ちょうど開催されていた会議に飛び入り参加して欧米の電気通信事情を報告し、無装荷ケーブルの有用性を訴えました。これによって無装荷ケーブルが日本と大陸を結ぶ通信網に採用する方針が固まり、実用化が図られていくのです。
松前の欧州留学の足取り
年 | 時期 | 事項 | 参考資料 |
---|---|---|---|
1933年 | 3月9日 | 逓信省より電話事業研究の目的でドイツ留学を命じられる | (『松前重義と望星学塾―その思想と行動』P.18) |
4月1日 | 横浜港から白山丸にて出発 | (「白山丸寄港地・入出港日スケジュール」日本郵船歴史博物館) | |
5月11日頃 | イタリア・ナポリに上陸、ポンペイ遺跡を訪問 ローマを通過し、ピサの斜塔を右に眺めながらジェノバからスイスへ | (「白山丸寄港地・入出港日スケジュール」日本郵船歴史博物館) (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.128) |
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5月末頃まで | スイス・ルツェルンで国際無線諮問委員会出席(約1カ月滞在) | (『定本松前重義全集著作篇 第4巻』P.5) | |
ドイツ・ベルリンへ | (『定本松前重義全集著作篇 第4巻』P.6) | ||
ベルリン市内ウイルメルスドルフ区ナッサウッセ街53番地のフラウ・テージング家に寄宿 | (『松前重義 その国際活動Ⅰ』P.35) | ||
6月上旬 | ドイツ・ポツダム | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
6月13日 | スイス・ルツェルン | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
イタリア・ミラノ | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.128) | ||
6月23日頃 | オーストリア・インスブルック | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
ドイツ・ベルリンへ | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.128) | ||
8月中 | スウェーデン・ノルウェー・デンマーク(3週間) | (『松前文庫』第6号,p.36,9月2日付ベルリンから兄顕義宛葉書) (松前重義旧蔵写真裏書き) (『東海大学建学の記』P.7) (『東海大学建学の精神』P.11) |
|
9月頃 | シュパンダウ区ジーメンス街イレーネ夫人宅に引越 | (『松前重義 その国際活動Ⅰ』P.46) | |
秋半ば | ドイツ・ヴィッテンベルク、ヴァイマル、チューリンゲン、ヴァルトブルク | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.135・140) | |
10月1日 | ドイツ・バイエルン | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
10月中旬頃 | 病気になった | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
11月9日 | ドイツ・ヴォルムス | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
11月11日 | ドイツ・ハイデルベルク | (松前重義旧蔵写真裏書き) | |
スイス・チューリッヒ | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.135・141) | ||
ドイツ・ミュンヘンからベルリン | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.135・141) | ||
暮れ | ローマで東洋人学生大会に出席、フィレンツェ、ヴェネツィア | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.128) | |
1934年 | 1月18日 | ドイツからデンマークへ出発 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.10) |
1月20日 | エスビヨルグのホイスコーレ・ハイム(国民高等学校寮)で夕食 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.14) | |
1月22日 | エスビヨルグの労働国民高等学校を訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.17) | |
1月24日 | ラデールンの農酪学校を見学 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.19) | |
1月25日 | ヴァイエンのアスコウ国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.20) | |
1月29日 | レイディング国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.38) | |
1月31日 | フレデレチアのスノーホイ女子体操国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.47) | |
2月1日 | オーデンセにてアンデルセン博物館見学 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.51) | |
2月2日 | スヴェンドボルグにてオレロップ体操国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.52) | |
2月5日 | ヘルヴェにてヴァレキールデ国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.57) | |
2月7日 | ヘルシングエールにて国際国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.63) | |
2月8日 | ヒレロッドにてフレデリックボルグ国民高等学校訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.67) | |
2月9日 | コペンハーゲンにてトルワルゼン博物館、グルントヴィ教会等見学 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.69) | |
2月10日 | コペンハーゲン大学訪問。グルントヴィの遺品を国立図書館で見る | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.70) | |
2月12日 | ロスキルデにてハラルドスボルグ家政塾訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.71) | |
2月13日 | フォンデングボルクより連絡船にてドイツ入り、ベルリンに戻る | (『定本松前重義全集著作篇 第1巻』P.72) | |
2月下旬 | ドイツからフランス・パリ パリ国際大学都市日本館(俗称「薩摩会館」)に宿泊―足利惇氏との出合い パリ無線電信局―足利が通訳として同行 | (足利惇氏「松前さんとわがパリの思い出」『松前文庫』第1号,p.13-14) | |
4月頃 | フランスからイギリス ロンドンのインターナショナル・スタンダード・エレクトリック社を訪問 | (『定本松前重義全集著作篇 第4巻』P.22) | |
5月頃 | イギリスからアメリカ-第3オイロッパ号で渡米 ベル電話研究所・AT&T社を訪問 マサチューセッツ州ボストン・アマースト大学を訪問 カリフォルニア州ロサンゼルス・ウィルソン山天文台やロングビーチなど | (『定本松前重義全集著作篇 第4巻』P.22-24) (東海大学第二工学部「現代文明論」音声資料,年代不明) (『東海大学建学の精神』P.178) |
|
6月初旬 | アメリカ・カリフォルニア州から浅間丸でハワイへ出発 | (『就航90周年記念 客船浅間丸~サンフランシスコ航路をゆく~』日本郵船歴史博物館、2019年) | |
6月11日 | ハワイ・ホノルルに到着し、同日横浜港へ出発 | ||
6月21日 | 横浜港に到着 | (『松前重義 その国際活動Ⅰ』P.55) |
協力
参考文献
- 松前重義「デンマークの文化を探る」(『定本松前重義全集著作篇 第1巻』東海大学出版会,2002年)
- 松前重義「発明記」(『定本松前重義全集著作篇 第4巻』東海大学出版会,2008年)
- 松前重義・白井久也『松前重義 わが昭和史』(朝日新聞社,1989年)
- 松前重義『松前重義 わが人生』(講談社,1980年)
- 松前重義『東海大学の精神』(東海大学出版会,1969年)
- 『松前重義 その国際活動Ⅰ』(東海大学出版会,1991年)
- 松前重義『東海大学建学の記』(東海大学出版会,1977年)
- 『望星学塾創立五十周年記念出版 松前重義と望星学塾―その思想と行動』(東海大学出版会,1986年)
- 『松前重義 その政治活動Ⅰ』(東海大学出版会,1987年)
- 足利惇氏「松前さんとわがパリの思い出」(『松前文庫』第1号,東海教育研究所,1975年)
- 足利惇氏「わが細く遙かなる道」(『松前文庫』第9号,東海教育研究所,1977年)
- 本多静雄「戦前の技術者運動(第3回)」(『松前文庫』No.6,1976年)
- 「松前重義アルバム(その13)写真で読む伝記」(『松前文庫』No.35,1983年)
- 藤家禮之助「『東海大学名誉教授会年報』第2号(東海大学名誉教授会年報編集委員会,2007年)
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 通史篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学五十年史編集委員会『東海大学五十年史 部局篇』(学校法人東海大学、1993年)
- 東海大学七十五年史編集委員会『東海大学七十五年史 通史篇』(学校法人東海大学、2018年)
- 『就航90周年記念 客船浅間丸~サンフランシスコ航路をゆく~』(日本郵船歴史博物館、2019年)
東海大学の卒業生です 生前の総長先生の「現代文明論」講義を拝聴した最後の世代でもあります 直接先生の謦咳に触れお姿もしっかり記憶しております 若き日の先生の活躍の片鱗を垣間見たような懐かしい思い出 非常に感銘を受けました